ユアンたちがタトュの村に着いた頃には、もう陽は傾いて空は赤く染まり始めていた。
「信じらんね…まさかこの年で迷子になるなんて…」
汗ばんだ首筋を手で拭いながらカナンがぼやく。
「いや、これはしょうがないっていうかさ、まぁ俺たちの認識が甘かったっていうことだよな」
身体に溜まった疲れを吐き出すかのようにラギが重いため息をつく。
「認識が甘いもなにも、あれはしょうがないって。本当…迷路だもんよ。あの森」
ゆるく頭を振ってガーリンがため息混じりに言う。いくら馬を使っていたとはいえ、一日中森の中をさまよったのだ。三人の顔には疲れの色が出ている。
しかしユアンはそれとは違う、言いようのない不安の色を浮かべて空を仰ぐ。
空は赤く染まり、気温の違いもあるのだろうが、首都で見ている夕焼けより眩しいくらいに鮮やかで美しく見える。
(なんだ…?)
雲行きが怪しい、と言うのだろうか。眩しいほど鮮やかな夕焼けが、なにか不吉なことが起こる前兆のような気がしてならない。
不吉な予感に顔をしかめていると、遠くからユアンたちを呼ぶ声が聞こえた。
「おーい、おまえら何処行ってたんだよ?!ジェノ分隊長が心配してたぞーッ」
同僚が駆け寄って言う。カナンは苦笑いを浮かべて「迷子」と簡潔に答えた。
「いや、あの森って意外に広くてさ…勘で歩いていたら迷子になっちゃったよ」
おかげで貴重な休みを一日潰してしまった、とラギが空を仰ぐ。
「なんだよ、だっさいの。それよりユアン、カナン。朝からずっとヴァンデスキー卿が探していたぞ?」
「――は?ヴァンデスキー卿が…?」
意外な名前にカナンが素っ頓狂な声をあげる。なんで?と顔をしかめてユアンに目で訊くが、ユアンも分からない、と小さく首を傾げる。
「ジェノ分隊長ならまだしも、何故ヴァンデスキー卿…?」
顎に手をあてながらユアンは考える。ユアンたちの上司はジェノだ。たとえ位がヴァンデスキー卿のほうが高いとしても、ヴァンデスキー卿は文官であるため、
もしユアンやカナンになにか任務を与えるとしても、ジェノを通して伝えるはずだ。しかもヴァンデスキー卿が朝からずっとユアンとカナンを探していたと言う。
(何故?)
「まぁとりあえずヴァンデスキー卿のところに行けよ」
「…あぁ、分かった」
釈然としないながらも頷いて、目でカナンを促す。二人は馬から降りてラギたちに預けてヴァンデスキー卿が泊まっている宿へと向かった。
イルは何故自分がこんな所にいるのか分からなかった。
イルがいる場所は木に囲まれた小さな空き地だった。生まれた時からずっとこの村にいるが、この場所は知らなかった。
(ここは何処だ…何故私はこんな所に…?)
ぼんやりとした頭で自問する。
マオをいたずらに刺激しないほうがいいだろう、と思って神殿の入り口でマオが降りてくるのを待っていた。祭りの準備はもうほぼ終わってやることがないし、
なにより自分は礼拝堂で神を依らせるために瞑想をしなければいけない。しかしマオが礼拝堂に引きこもってしまったため、出てくるのを待つしかない。
そう思って神殿の入り口でマオを待っていたら、突然頭の中が真っ白になった。
自分の意識が他者によって無理矢理外に追い出されたような――そんな覚えのない感覚。イルの意識はあるものの、それはイルの身体の外で、
まるで傍観者のように立っている。
そして身体は自分の意思とは関係なく神殿から離れ、まるで見えない何者かに導かれるように今立っている所に来た。
(私は何故…)
――と、その時。
再びあの感覚がイルを襲った。
もはや自分の身体と意思は別になっているというのに、目の前が真っ白になる。抗い難い侵入に思考が力が奪われていく。
白くぼやけた視界に淡い映像が浮かび上がってくる。それは今目の前にしている風景と似ていて少し違う。若い男女が寄り添って座っていた。
「――」
イルの意識が完全に奪われた。
ヴァンデスキー卿の部屋の前でユアンとカナンは一度深呼吸をする。昨日も馬車で話し相手をしたとはいえ、
本来ならばよほどのことがない限り会うこともない相手なのだ。
おずおずとカナンが控えめにノックをする。するとすぐして「どうぞ」と穏やかな声が返ってきた。
「失礼します、カナン・マクスヴェルとユアン・マクスヴェルです」
背筋を伸ばしてカナンが名前を言うと、すぐにドアが開いた。
皇服ではなく簡素な服を着ているヴァンデスキー卿が二人の顔を見た瞬間、わずかに安堵のため息を漏らした。
「あぁ良かった。朝からずっと探していたのですよ」
「申し訳ございません。近隣の村まで見回りに出ていたのですが、帰りに少し迷ってしまって…」
簡単に理由を言って頭を下げる。ヴァンデスキー卿は苦笑いを浮かべて「それはご苦労様です」と労いの言葉を言った。
「どうぞ、入ってください」
身体を横にずらし中に入るように促す。貴族の部屋に入ることに少し躊躇ったが、二人は互いに目をやり「失礼します」と断って中に入った。
部屋は貴族に用意されただけあって広く、家具も充実していた。ヴァンデスキー卿は部屋の中央にあるテーブルに二人を招き、座るように言った。
「いえ…私たちは立ったままでも…」
「少し話が長くなると思いますので。どうぞ座ってください」
それにずっと見回りで出ていて疲れたでしょう?と穏やかな笑顔で言われ、二人はおずおずとヴァンデスキー卿の向かいに座る。
「――それで、貴方たち二人を探していたのは少し話がありまして。もうあまり時間もないのですぐに本題に入りますが…」
そう言ってヴァンデスキー卿は胸ポケットから一枚の写真を取り出し、それをテーブルの上に置く。二人はその写真を覗きこむ。
ややあって二人の目が驚愕に見開き、鋭く息を呑む。
カナンがゆっくりと顔をあげてヴァンデスキー卿を見ると、ヴァンデスキー卿は笑みを消した真剣な表情でユアンを見ていた。
「これ…は…」
ユアンがかすれた声を漏らす。
(夢に出たあの――…)
「どうですか?誰かに似ていませんか?」
変わらず穏やかな声に訊かれカナンは反射的にユアンを見た。緑色の目が驚愕の色を宿していた。
「ユアン…」
掠れた声でユアンの名前をこぼす。
その写真に写っている人物はユアンに瓜二つと言ってもいいほど似ていた。中性的な顔立ちはしているが、写真の者は女だと分かる。
違いといえばそれぐらいだけ。それほどこの写真の者とユアンは似ている。
「この方はクナデ様と言いまして、先代の”神問いの子”です」
「?!」
その言葉に二人は弾かれたように顔をあげてヴァンデスキー卿を見る。
「私もこの写真を見た時は驚きました。本当にこの方と、ユアン・マクスヴェル、貴方が似ているのですから」
「――…」
頭の先から音をたてて血の気が引いていくのが分かる。同時に頭の隅で警戒音が鳴る。
(駄目だ…)
その先を聴いてはいけない、と本能が告げる。しかし身体は言うことを聞かず、口は凍ったように動かず目がその先を促していた。
「昨日ここに着いた時のことを覚えていますか?長老たちが貴方を見た瞬間、クナデ様だと騒いだことを」
「……」
「私は先代の”神問いの子”にお会いしたことがないので、クナデ様のことは知らなくてなにがなんだか分からなかったのですが」
一回言葉を切ってため息ににた吐息を漏らし、一拍置いて真正面からユアンを見据える。
「これは他言しないでいただきたいことなのですが、実は今”神問いの子”だと名乗っているマオ様、あの方は”神問いの子”の身代わりなのです」
「え…?」
二人は一瞬言葉の意味を取りこぼした。
(身代わり?)
昨日”神問いの子”だと名乗ったあの少女が、身代わり――つまり偽者。
嘘だろ、と思う反面、やはりそうか、と納得した。
昨日会った少女のことを思い出す。あのマオという少女はあまりにも普通だった。確かに容姿は美しかったが、それでも普通の少女だった。
ユアンが感じた違和感は正しく、ヴァンデスキー卿は彼女は”身代わり”なのだと言った。
(では本物は…?)
その疑問が頭をもたげた時、ユアンの身体が大きく強張った。カナンも同じことを察したらしく、再び驚愕に目を見開いてユアンを恐る恐る見る。
ユアンはそれから逃げるように再び写真に視線を落とす。
ヴァンデスキー卿は今までなんと言っていた?
この写真の女性は――自分でも見間違いそうになるくらい自分とよく似た女性は――クナデと言って先代の”神問いの子”だと言っていた。
そして今”神問いの子”だと名乗っているマオという少女は、”神問いの子”の”身代わり”をしていると言った。
自分と瓜二つな写真の女性。
クナデ。
先代の”神問いの子”。
マオ。
”神問いの子”の身代わり。
――では本物の”神問いの子”は?
(駄目だ)
考えてはいけない。それ以上考えてはいけない。
浮かび上がりそうになる答えから必死に目を背けようとするが、ヴァンデスキー卿はそれを無視して再び口を開く。
「昨日長老から詳しい話を聞いたのですが、なんでもクナデ様は二十年前にこの村から逃げたそうです。
逃げた理由は長老たちも分からないようですが。それで、その時
クナデ様は身篭っていらっしゃったそうです」
(駄目だ、駄目だッ)
それ以上聞いては駄目だ。聞きたくない。貴族相手に失礼だが耳を塞ぎたい――しかし何故か身体が言うことをきかない。
「それで確認したいことがあるのですが、貴方がた二人は戸籍では双子の兄弟となっているらしいですが、血は繋がっていないそうですね?」
「……ッ」
目の前が真っ暗になった。近くに座っているヴァンデスキー卿の姿とカナンの姿も闇に消えた。
闇の中に放り出されたような――覚えのあるあの感覚。幼い頃何度か体験し、昨日もそこに放り出された。
不安、
焦燥、
恐怖、
孤独。
突然幼い頃の記憶が脳裏によみがえる。
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