外の空気を吸って少しは楽になった。
それでもわずかに残っている不快感を払拭するようにユアンは深い呼吸を繰り返す。
ひどく嫌な夢を見た。
すすり泣く声と、自責の言葉。
大人たちの歪んだ会話。
身を裂くような赤ん坊の悲鳴。
女の――悲鳴。
無残に殺された赤ん坊の亡骸と、歪んだ笑みを浮かべた見知らない男の死体。
背筋を冷たく撫ぜる深い悲しみと憎しみが混ざった声。
せ返るような生々しい血の匂い。
夢にしてはすべてが生々しかった。血の匂いや死体など戦場で慣れている。だが、その経験さえも凌駕りょうがするほどの 残酷さ。
おかげで今朝はなにも食べられなかった。とても喉になにかを通す気になれなかったし、 タトュの民族は肉を主食としているらしく、朝も数種類の香辛料を使って香ばしく焼いた肉が並んでいて、 その匂いは血の匂いを思い出させた。
たいてい見た夢など目を覚ませば忘れるのだが、今日の夢ばかりはくっきりと鮮明に記憶に刻み込まれている。
そんな状態だったものだからカナンや他の同僚たち、ジェノにまで心配されてしまい、村周辺の見回りを外されそうになったがそれは断った。 たとえ体調が悪くとも部屋の中で閉じこもるより、外の空気を吸って気分転換したかった。
(ここに来てからろくな夢見ていないな)
心の中で重いため息をつく。
「あーやっぱり私服は楽でいいよなぁ」
隣でカナンが空に向かって背筋を伸ばしながら言う。
「これで鎧がなければ、もっと楽なんだろうけどな」
カナンの隣にいるラギがため息をつく。
「でも皇服着るよりかはマシだろ?」
「ま、そりゃあそうだけど。昨日は本気で地獄だったよなぁ。俺、暑さのあまり蒸発するかと思った」
昨日のことを思い出してかげっそりとした顔をして言うラギにカナンは短い笑い声をたてる。
「ユアンは身体大丈夫か?」
カナンとは反対の隣にいるガーリンが顔を覗きこむ。
「あぁ、大丈夫だ。外に出てだいぶ良くなった」
「しっかしこっちに来てから調子よくないよなぁ。戦の時とかぜんぜん平気なのにさ」
「――気候が合わないのかな?」
弱々しい苦笑いを浮かべて答えると、ラギとガーリンは「暑いもんなぁ」としきりに頷く。
ユアンは目を閉じて振り払うように頭を振る。せっかく外に出たというのに夢に捉われてしまったら意味がない。これ以上周りに心配かけないよう、 夢のことは忘れるべきだ。
「しっかし、見回りなんか必要ないくらい、平和だよなぁ」
周りを見回しながらガーリンがぼやく。 今ユアン達はタトュの村周辺の見回りということで、隣の村のクレスタ村まで来ている。
見回りと言ってもこの辺りは特に警戒するようなことがないため、ほとんど散歩のような感じである。
「まぁ、この辺はなぁ…北方と違って他国との小競り合いがないからなぁ」
「そうそうそう。なんたってここは”戦知らず”のはるか南の地だからさ」
「タトュ風に言うとこれも”アヴトゥルナ神のご加護のおかげ”って感じ?」
「地域限定のご加護だなぁ」
カナンたちの軽口を聞きながら周りを見る。小さな店を出している者、農作業をしている者、ユアンたちを近所の住人と好奇の目を向けている者、 家畜の餌を運ぶ者――カナンたちが言うように平和で、どこにでもあるような村の風景だった。
(ん?)
ふと視線を感じてユアンはその視線を感じるほうを見る。しかしそこには誰も居なかった。目に入ったのは、他と比べてやけに大きな屋敷だった。
(屋敷から誰かが見ている、ってことはないよな)
視線を感じるには遠すぎる。しかし確かに屋敷のほうから刺すような視線を感じた。
しばらくじっと屋敷を見つめるが、すぐに気のせいか、と思いなおして視線を逸らして馬を歩かせる。
その屋敷にユアンたちを残忍な笑みを浮かべて見ている者たちがいることを知らずに。

 「イル…」
神殿の長い階段を下り終え、入り口に着くと婚約者とばったりと会った。
「――カエから聞いたぞ。昨日は神殿から帰ってきていない、と」
相変わらず淡々とした抑揚のない声で言われて、羞恥しゅうちでマオの頬に朱が走る。
カエが自分のことを良く思っていないことは知っている。昔からそうだった。昔からマオに対しては否定的で、反抗的だった。
おそらく昨日のうちにあの騎士が”神問いの子”であること――そうとは言っていなくとも近いことはもう 村中に広まっているだろう。当然カエの耳にも入っているだろう。
きっとカエは蔑むように笑っただろう。そしてイルにまだマオが未練がましく神殿にいることを嘲笑交じりに言っただろう。 想像に難くない。
それを想像すると屈辱と羞恥で顔が、身体が熱くなる。
「だって…ッ!だって…あの騎士様が”神問いの子”だって決まったわけじゃないし…だから…身代わりでもまだいたほうがいいかな、って…」
言っている途中で口にしている言い訳が弱いものだと気付き、最後はつい尻すぼみになってしまう。 本当はそんなこと思っていなかった。未練がましく神殿に残っていたかったのだ。 今だって階段を下りるたび心が沈んできて、一歩一歩出口に近付いていくのが嫌だった。
神殿を出てしまったらもう自分は”神問いの子”ではなくなる。身代わりの役目が終わる。
”神問いの子”でなくなるのが嫌だった。あれほど帰ってきて欲しいと望みながら、その”神問いの子”が今までの自分を壊すのかと思うと、 恐い思いも、嫌な思いも、孤独も感じるが、身代わりでもいいその役にすがりついていたかった。
しかしここを出なければいけない。いつまでもここに留まって周りから笑われるのが嫌だから。
「なにを言っている。あの騎士が”神問いの子”に決まっているだろう?昨日の占いではっきりと答えが示されただろ」
しかしそんなマオの気持ちを知らないイルは平然と残酷な真実を言う。
「そう…だけど…」
込みあげてくる熱を噛み殺すように唇をきつく噛む。今胸にわだかまっているこの思いを伝えたら、イルはどんな反応をするだろう。
「どうした?”神問いの子”が帰ってきたんだぞ?ずっと帰ってきて欲しかったんだろ?嬉しくないのか?」
「――…ッ」
頬に手を添えられイルのほうに向かせるが、イルの顔を直視できずに視線を泳がせる。
「やっと身代わりから解放されるんだぞ?」
「そ、そうだけど…」
(そうだけど)
確かにそれはずっと望んできた。そう、昨日の昨日までずっとイルに漏らしていたことだ。
けれど、身代わりの役目から解放された自分はその後どうすればいい?”神問いの子”の身代わりとして、”神問いの子”らしく 振舞うように教育された自分は、”神問いの子”の身代わりですらなくなってしまったらどうすればいい?
初めからそれしか用意されていなかった。普通の生活に戻るにも、初めからそこにいなかった自分はどうすればいいのだろう?
そんな不安がマオをむしばむ。
「い、イルは…イルは、”神問いの子”を信じる、の?」
震える声で訊くとイルは軽く小首を傾げた。
「き、昨日言っていたじゃないッ!”神問いの子”は本当にいるのか?って…信じて…いなかったじゃない」
苦いものを吐き出すように言うと痺れるように目頭が熱くなってきた。こんなことを言う自分が惨めで、涙が出そうだ。
イルはしばらく無言でマオを見ていた。視線が頬に突き刺さり、二人の間に痛い沈黙が訪れた。
「――確かに昨日まではそんなことを言っていた」
「い、イル…?」
「しかし実際に現れた今は違う。”子”は私が存在する意味を与えてくれる。”神依りの人”である私の意味を…」
「…・・・」
なにも言えなかった。イルは自分の存在の無意味さに諦めていた。 ”子”がいないのに”神依りの人”はいる。なんて無意味なんだろう、とずいぶん前にイルはマオにこぼしていた。 あまり感情を表さないイルが、その時だけは辛そうで、悲しい顔をしていたのを覚えている。
それを覚えているから、マオはなにも言えなかった。
「明日あの騎士様を覚醒させる」
「え…?」
”覚醒”という言葉がやけに頭に響いて聞こえた。
「明日の祭りの時にあの騎士様を覚醒させる。明日はちょうど代々の”神問いの子”の誕生日だ。だから長老がちょうどいい、と言っていた」
音をたてて血がひいていくのが分かる。
「覚醒にはきっと私の力が必要になると思う。だから私は神を迎えるために神殿に入って身体を清める」
「――ッ?!」

『明日の祭りの時にあの騎士様を覚醒させる。明日はちょうど代々の”神問いの子”の誕生日だ。だから長老がちょうどいい、と言っていた』

『覚醒にはきっと私の力が必要になると思う。だから私は神を迎えるために神殿に入って身体を清める』

イルの言葉がこの世で一番残酷な言葉に聞こえた。
目の前が真っ暗になる。身体が絶望の闇に包まれる。体温が音をたててひいていく。身体が冷たさと恐怖で小刻みに震える。
喉が締め付けられ呼吸が苦しい。隙間から漏れた声は言葉をなさない。堪えていた涙がこぼれ落ちた。
「マオ?」
「い、いや…」
つきつけられた現実を否定するかのように首を振る。イルが心配そうに顔を覗きこむが、胸を突き飛ばして拒む。
「いや…いや…ちがうちがうちがう違うッ!!!」
「マオ…?」
「か、”神問いの子”は私よッ!!私が”神問いの子”なのッ!!あんな男じゃないわ!私が…私が…ッ!!!!」
腹の奥底から熱いものがこみあげてきて喉を突き、言葉を詰まらせる。腹の奥底から熱いものがこみあげてきているのに、身体は逆に体温を失っていく。
イルの顔を見ていられなくなってマオは踵を返して神殿の中に戻った。
「マオッ!!」
珍しくイルが声をあげてマオを呼び止めるが、マオはそれを振り切って階段を駆け上がる。
途中足がもつれて何度も転んだが、それでもマオは駆け上がるのをやめなかった。止まったらイルに捕まりそうだから。現実に、捕まりそうだから。
すべてから逃げるように転んでも喉が裂けるほど息がきれても、七階まである礼拝堂まで駆け上がった。
転がり込むように朝までいた礼拝堂に入り、すべてを拒絶かのように乱暴に扉を閉めた。
すり傷だらけで血が滲んでいる足が震えて、力が入らなくてその場で崩れる。喉が熱くて痛くてまともに声が出ない。
汗が額から伝い落ち、涙と交じる。
「か、むど、いの…子は、わた、し、よ…」
喉の痛みも構わず自分に言い聞かせるように何度も何度も呟く。そろそろと顔をあげて礼拝堂を見回す。つい今し方までここにいた場所。
昨日までは”神問いの子”としていた場所。
(違う)
礼拝堂の奥にあるひっそりと佇んでいる神の姿を象った像が目に入って唇の形が歪む。
「な、に言って…る、んだろ…」
”神問いの子”は神と人間の間に生まれた子。
神の声を聴くことができ、神と同等の力を持つ者。
神であり人、人であり神。
――自分が”神問いの子”であるわけがない。
自分は神の声を聴くことができない、ただ神の力に触れて占いをするしかできない、ただの御子。
二十年前に突如いなくなってしまった”神問いの子”のただの身代わり。
冷静になって振り返るとなんだか笑えた。自分があまりにも惨めで、今までしてきたことが馬鹿馬鹿しくて。
堪えきれずに乾いた笑い声をたてた。おかしくて、おかしくて、今の自分があまりにも滑稽で。笑いが止まらなくて、苦しくて涙が出た。
ひとしきり笑った後、不意に抗い難い虚脱感がマオを襲った。笑みの形を作る力も残っていない。
「私、なにやってんだろ…」
その呟きはむなしく礼拝堂の中に響くことなく消えた。