朝食の後、自分に用意された部屋でさて、今日はなにをしようか、とジェノが思いを巡らせている時、ドアをノックする音が聞こえた。
「はい?」
誰だろう?と小首を傾げながら返事をする。
「ジェノ分隊長、ヴァンデスキーですが、少しよろしいでしょうか?」
聞き慣れた外務卿の声にジェノの背筋は反射的にまっすぐに伸び、慌てて部屋を見渡す。まさか外務卿が自分の部屋を訪ねてくるとは思っていなかったので、
脱いだ衣服が床に落ちていて、ベッドは寝乱れたままだ。それを急いで直してやっとドアを開ける。
「突然訪ねて申し訳ありません。少し伺いたいことがありまして」
自分よりはるかに下の階級に属する者に対してもヴァンデスキー卿は礼儀と敬語を忘れない。しかしそれが逆に相手をさらに緊張させる。
「いえッ!とんでもないです。あの、どうぞ…」
「そう…ですね。ではお邪魔します」
身体を横にずらして前を開けると、ヴァンデスキー卿は静かに中に入った。ジェノは一般の騎士たちと同じ宿舎に泊まっているため、この部屋には椅子がない。
自分一人が数日間寝泊りするだけならば椅子などなくても構わないし、部屋を訪ねるのも自分の部下たちならばベッドの上に座らせても問題はない。が、しかしいかんせん、
今自分を訪ねてきたのは国の重臣である外務卿だ。まさかベッドの上に座らせるわけにはいかない。
この部屋の不便さに心の中で舌打ちをしてどうしようかと考える。するとヴァンデスキー卿はそんなジェノの心の内が読めたのか、「あぁ」と声を漏らして苦笑いを浮かべる。
「私が呼べばよかったですね。気を遣わせてしまって申し訳ない。少し訊きたいことがあるだけですから、私は立ったままで構いませんよ」
「あ、いえ、はぁ…」
穏やかな声で謝られてジェノはあやふやな返事をする。無理もない。ヴァンデスキー卿とジェノの地位の差は天と地ほどの差があるのだ。
なんとも言えない羞恥心にジェノはわずかに顔を赤らめる。
「あの、それで、訊きたいことって…」
おずおずと訊くとヴァンデスキー卿は笑みを消して真面目な顔をしてジェノをまっすぐ見る。
「はい、そのことですが、貴方の隊にいるユアン・マクスヴェルのことについていくつか質問をしたいのですが、よろしいでしょうか?」
ヴァンデスキー卿の口から意外な名前が出てジェノは目を丸くする。
「は…?ユアン・マクスヴェルのこと、ですか?」
「えぇ。彼の家族のことについてです。知っていることをすべて教えて欲しいのですが」
知らないでしょうか?と首を傾げる。たとえ一隊の分隊長であろうと、隊の騎士全員のことを把握するのはよほど記憶を司る中枢が発達して
いなければ無理なことだ。何人かは把握しているだろうが、それはやはりジェノに近しい者の情報だろう。その中にユアンが入っている可能性は低い。
「あ、は、はぁ…あの、少しは知ってはいるのですが…」
しかし奇跡的にジェノの記憶の中にユアンの情報はあった。だがジェノはなにか言いにくそうに口をもごらせる。しばらく口の中で
言葉を弄ばした後、意を決したようにはっきりと口を開く。
「その、さしでがましいでしょうが、何故ユアン・マクスヴェルのことを?」
公爵の位を持っている外務卿のことに、なにも位を持たない自分が口を出していいものか迷ったが、たとえ三百人弱の中の一人とはいえ自分の
大切な部下のことだ。訊かれれば答えるのもやぶさかではないが、事情は知っておきたい。
鍛え上げられた逞しい身体と反比例して性格は温和で情が深く、
やや頼りなさそうに見られるが、その性格故に彼は三十人いる分隊長の中で最も部下の信頼を集めている。
「それは――いや、今はまだ言えません。すべてがはっきりしたら教えます。
ただそれをはっきりさせるために訊きたいのですが、協力してもらえないでしょうか?」
穏やかで落ち着いた声でお願いされあやうく素直に頷きかけたが、心の中で首を左右に振って気を取り直してなおも食い下がる。
「ヴァンデスキー卿が訊こうとしていることはユアン・マクスヴェルの私生活のことですよね?何故本人に直接ではなく、私に訊かれるのですか?」
「相手がなにかを察して嘘をつくかもしれないからです。ここは首都から遠く離れた土地ですから、
すぐに確認する手立てがありませんので、貴方からまず
情報をとっておこうと。もしユアン・マクスヴェルのことをなにも知らなかったのなら直接本人に訊きましたが」
流れるように言葉は紡がれたが、しかしジェノはその言葉がひっかかった。
「…嘘?ユアン・マクスヴェルには嘘をつく必要があるなにかがあるのでしょうか?」
「――いえ、私の考えすぎだとは思います。失礼なことを言いました。とにかくすべてがはっきりし次第貴方の質問にすべてお答えします。
今はどうか貴方が持っている情報を私に提供してください」
まっすぐ真摯な目でジェノを見つめお願いをする目の前の貴族にジェノはすぐに返事はせず黙考をする。
何故目の前の貴族が一介の騎士であるユアン・マクスヴェルのことを気にするのだろうか。密かに考え付くのは昨日のことだ。
昨日あのグレイクという村長がユアンを見て”クナデ様”と言った。クナデの名前は知らないが、あそこまで騒ぐのだから村にとって特別な存在なのだろう。
それとグレイクは”帰ってきてくれた”とも言った。つまりクナデは村からなんらかの理由で姿を消したのだろう。そしてクナデと間違われるほど似ているらしい
ユアン。
もしかするとヴァンデスキー卿
はグレイクにユアンとクナデの関係を調べて欲しいと頼まれたのかもしれない。
「過ぎたことを聞きました。具体的になにが知りたいのでしょうか?」
考えを巡らせた末、教えても大丈夫だろうと判断を下した。もしユアンがクナデという者となんらかの関係があったとしても、
ユアンがどうこうなるわけではないだろうと思ったからだ。
「ありがとうございます。私が知りたいのは、ユアン・マクスヴェルと同じ班に所属しているカナン・マクスヴェルの関係についてです。
二人とも姓が同じですが、親戚関係かなにかでしょうか?」
「いえ、二人は兄弟です。一応双子、らしいですけど」
「双子?しかしあの二人は…」
顔をしかめて語尾を濁したが、言わなくともその続きは分かる。似ていない、と言いたいのだろう。かつては自分も本人たちを前に同じことを言った。
「はい。私も二人が配属された時にそのことについて訊いたことがありまして――だから二人のことは覚えているのですが――二人は本当の
兄弟ではないそうです。ユアン・マクスヴェルは生まれてすぐに
マクスヴェル家の養子になったそうです」
「生まれてすぐ、ですか?」
「えぇ。何故養子にとられたのかその経緯は分かりませんが、
養子に引き取る少し前にカナン・マクスヴェルが生まれていて、だから一応双子、ということになっているらしいですよ」
私が知っていることは以上です、と言うとヴァンデスキー卿は「そうですか」と呟いたきり黙った。口元に手をあてて今得た情報を頭の中で吟味しているのだろう。
「――分かりました、充分です。ありがとうございました」
重々しく頷くその表情はどこか暗かった。
いったいなにが分かったのか事情を知らないジェノには分からないが、どうやらこれだけの情報で充分だったらしい。
「貴方は騎士団に入団されてから何年が経ちました?」
「…へ?」
不意にヴァンデスキー卿はまったく脈絡のないことを訊いてきた。ジェノは一瞬言葉を拾いかねて抜けた声で聞き返してしまった。
「見たところまだ三十代の半ばに見えますが、騎士団に入団されて何年が経ちましたか?」
「え、あ、あぁ…えーっと十五年、でしょうか?」
入団した歳を思い出して逆算をする。デュッセンブルク皇国の騎士団に入団できるのは十六歳からとなっている。
しかしほとんどの者は十七歳から入団する。何故なら高等学校を卒業してから入団試験を受ける者が多いからだ。
デュッセンブルク皇国の高等学校は十六歳で卒業となる。もちろん学校とのかけもちは認められている。が、騎士団の訓練と学業の両立ができず、どちらかを
挫折する者は多い。故にほとんどの者は高等学校を卒業してから入団試験を受ける。ジェノも例外なくそうした。
十七歳で入団して二十九歳という若さで分隊長になった。三十人いる分隊長の中で一番若いのはジェノである。
「十五年、ですか。今回のこの任務は初めてですか?」
「はい、そう、ですけど…」
質問の意図が分からずついしどろもどろな返答になってしまう。
「ではつい最近”神問いの子”のことを知ったのですね?」
「えぇ…まぁ…」
「”神問いの子”の話は聞きましたか?」
「皇宮内の資料室で読みました」
「そうですか。では昨日の”神問いの子”を見てどう思いましたか?」
どうと言われても――ジェノは言葉を呑む。
資料で読んだ話はお伽話のようでとても信じられなかった。正直、馬鹿げていると思った。
昨日会った”神問いの子”と名乗った少女はごく普通の少女に見えた。
この任務を言い渡された時、”神問いの子”の話を少しだけ聞いた。話を聞いてそのまま信じたわけではないが、外務卿と皇太子を
向かわせるぐらいだから、話のままとまでは言わないが、国にとって重要な人物なのだろう。
そう思ってどんな人物なのか、色々と想像を膨らませていた。神と人間との間の子というのだから、もっと神秘的で、もっと近寄り難い雰囲気を持った、
そう見ただけで常人ではない、と分かるような、そういう者を想像していた。
しかし目の前に現れたのは美しいが、普通の少女だった。本当に”神問いの子”であるのか、
と内心訝った。
その時ゼルファが突然少女に剣を渡し斬りかかった。
あれでは誰だって応戦できない――そう、普通の者ならば。
案の定”神問いの子”である少女は剣を持ったまま恐怖に身体を竦ませていた。しかし彼女は傷を負わなかった。外したのではない、
彼女より早くにゼルファの行動を
察した者――ユアン・マクスヴェルが剣で受け止めたのだ。
正直な話、ゼルファの、”神問いの子”ならこれぐらいかわせるだろう、という発言には深く頷けた。
”神”の声を聴く者ならば、察せたはずだ、とジェノも思う。
なのに”神問いの子”はただの少女であって、そしてゼルファの行動を察したのはただの騎士であるユアン・マクスヴェルだった。
しょせんは”神問いの子”なんて神話じみた作り話だ、と――…
(ん…?)
昨日のことに思考を巡らせていると、なにかがひっかかった。しかしそれをさえぎるかのようにヴァンデスキー卿が再び口を開いた。
「普通の人でしたでしょう?」
「……」
はい、だなんて素直に頷けるわけがない。実際はどうであれ”神問いの子”は国にとって大事な存在なのだから。
「外務卿になって早くも十年。実は私も”神問いの子”を見たことがないのですよ」
「え…?」
(見たことが、ない?)
おかしい。そんなはずはない。ヴァンデスキー卿は毎年この村に出向いているのだ、いや、昨日もジェノたちの前で挨拶を交わしていたではないか。
”神問いの子”と名乗った、普通の少女。
”神問いの子”に会ったことがない、と言う外務卿。
わけもなく背筋が粟立つ。
そんなジェノを見てヴァンデスキー卿は唇の端で小さく笑う。
「さて。ユアン・マクスヴェルにも確認をとらないと」
なんの確認だろうか?ジェノに訊いたことと同じことを訊くのだろうか?訊いて、ジェノが提供した情報と一致したら、
ヴァンデスキー卿は彼をどうするのだろうか。
嫌な予感が胸を襲う。不安にも似た焦燥が胸を締め付ける。
「ユアン・マクスヴェルの部屋は何処ですか?」
「ここからタトュの村までどれぐらいかかるんだ?」
ソファの背もたれに悠然ともたれ窓の外を見ながら男が訊く。
「はい。この村を出るとすぐにタトュの村に入りますから、およそ三時間あれば着くと思いますが…」
男の前で恭しく答えたのは五十代半ば頃の禿頭の男だった。
背が低く、昔はもう少し引き締まっていただろうという身体は
身長と不釣合いなくらいに丸い。
ともすればへつらうように手を揉みそうなこの男を、興味なさそうに一瞥する。
「そうか。けっこうかかるんだな」
「えぇ。お恥ずかしながらこの辺りは田舎なもので」
「見ればわかる。おまえもこんななにもない村の領主なんかやって、さぞかし不満もあるだろう」
同情するふうでもなく、どうでもいいが、ついでに訊くような淡々とした声で言うと、禿頭の男は大げさに何度も頷いた。
「えぇ!そりゃあもうッ!!なんで伯爵の地位を持つ私がこんなド田舎でケチっぽく領主なんぞやらなければならないのか…ッ」
悔しそうに奥歯を噛みしめ、男は訊いてもいない不満を次々と口にする。伯爵という地位を持っていようが、その地位とはまったく釣り合わない
役職に就いていることなど、男にとってはどうでも良いことだ。それでも一応耳に通しているのは、出発の時間までの暇潰しのためだ。
しかし愚痴が募れば募るほど、暇になっていく。男の愚痴など雑音にすらならない。心の中でため息をつくと、見慣れない集団が目に入った。
四人の男が馬に乗って村を歩いている。四人とも私服だったが肩や胸に簡易の鎧を着け、腰に剣を携えている。
そして彼らが乗っている馬の鞍には見覚えのある紋章が刻まれていた。
「――デュッセンブルク皇国の奴らか」
禿頭の男の愚痴をさえぎって男が感情のない声で呟く。
「は…えぇ?」
自分の愚痴を吐き出すことに集中していた男が間の抜けた声をあげる。
「どうなさいますか?ガラン様」
訊いてきたのはずっと後ろで影のようにひっそりと立っていた金髪の若い男だった。
男――ガランはじっと睨むように目の前をゆっくりと歩いている集団を見る。
「始末しますか?」
若い男の声は静かで抑揚がなく、まるでついでにできた仕事を片付けるかのように訊く。声は静かだが言葉は聞く者の胸を深く突き刺す響きがあった。
ガランはしばらく黙考して、ややあって首を左右に振った。
「いや。今はまだ動かないほうがいい。そこにいる奴らはヴァンデスキー卿の護衛の騎士たちだろう?おそらく
見回りかなにかでここに来たんだと思うが…今始末するのは簡単だが、そうしたら向こうに不審がられる。計画の前に向こうに我々のことがばれるのは
避けたいからな」
「――賢明なご判断で」
「ふん。厭味か」
鼻を鳴らしてちらりと若い男を軽く睨む。
「まさか。心からの称賛ですよ」
そう言う割にはまったく感情もこもっていないが、いつものことなのでガランは聞き流すことにした。
もう一度窓の外にいるデュッセンブルク皇国の騎士たちを見る。四人ともまだ若い。計画さえなければ暇潰しに自分の側に控えている金髪の男――クラヌス
に首をとらせたが、計画がある手前、今自分たちがここにいることはばれたくない。
ガランは唇に冷たい笑みを浮かべる。
「出発は十五時。始末するのは着いてからのお楽しみだ」
残酷な色を含んだガランの言葉に禿頭の男は思わず身を竦めた。
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