いいかい、よく聞いて、よく覚えておくんだよ?

記憶にあるまだ若い頃の祖父の声が鼓膜を撫でる。

おまえは神を、アヴトゥルナ神をその身にせることができる者なんだ。これはな、 私たち一族の、そう、たった一人しかできないことなのだよ?
おまえはその才、その身体に恵まれた者。新たな”神依かむよりの人” として、神に・・選ばれた者。
これはな、”神問いの子”にだってできないことなんだよ?そう、おまえだけだ。おまえだけが神をその身に依せることができるのだ。
神は突然降りられる。それはいつ、何故降りられるかは分からない。おまえが生きている間に一度も降りないかもしれない。おまえの父親は 新たな”子”を生すために神を依せて”子”と交わった――おまえにはそれはないだろうけれど、きっといつか神がその身に降りられる。
だから誰よりも神を信じ、そして”神問いの子”と同じように神を愛しなさい。神が降りられるのに相応しい身体と精神を持ちなさい。
そして神の子である”神問いの子”に尽くしなさい。”子”の世話をするのは”神依りの人”の役目でもあるのだから。

しかしその”神問いの子”はいない。

イルってなに考えているんだか分からない。
不気味だよな。いつもなに言っても笑わないし、怒らないし。
感情がないっていうかさぁ…。
でもさ、母さんが言っていたけど、イルって神様を依せる”神依りの人”なんだからしょうがないんだってよ。
神を依せる人なんだからあんまり感情持っちゃいけないんだってさ。
でもさ、なんか気持ち悪いよな。

若い頃の祖父の声から一転、記憶にある悪意に満ちた陰口が浮かぶ。

”神依りの人”ってなんか、嘘くさくないか?
”神問いの子”でさえ嘘くさいのにな。
”神依りの人”って”神問いの子”と交じわるために神を身体に依せるんだって。
へぇ〜ッ。だけど”神問いの子”なんていないじゃん。マオは身代わりだって言ってたし。
なんだ。意味ないじゃん。
意味ないっていうか、そもそもさぁ――…

幾度なく聞いてきた嘲りと悪意に満ちた陰口。
いくら大人たちが言い聞かせようと、その存在と力を目の当たりにしなければ、人は信じるのをやめてしまう。
嘘くさい。
あやしい。
意味がない。
――そんなこと人に言われるまでもない、それを一番に疑っているのは他の誰でもない、自分なのだから。
”神依りの人”の父の子に生まれて、四人の兄弟の三番目の自分が次の”神依りの人”に選ばれた。なにを基準に選ばれたのかは分からない。 元そうだった者の勘というのがあったのだろう、父が決めた。代々”神依りの人”は村長を務めてきたのだから、上の兄たちには僻まれて いい迷惑だ。
物心がついた時から嫌になるほど”神依りの人”としての在り方、その役目を教えてきた。役目といってもほとんど”神問いの子”の世話ばかりだ。
しかし、その”神問いの子”すらいない。イルが生まれる少し前からいなくなった、らしい。
”神問いの子”がいないのに”神依りの人”は選ばれ、それだけが存在する。なんて無意味なんだろう、と思う。 それでも幼い頃は”子”の存在を信じて、周りの大人たちのようにいつか帰ってくると信じていた。
信じていた――が、十六年の歳月が流れたが、”神問いの子”が帰ってくることはなかった。
”神問いの子”は神と人間の間の子。
神と同等の力を持ち、神の声を聴き、伝える者。
神であり、人。人であり神。
”子”は神の代理人。
”子”が村をすべての災厄から守ってくれる。
”子”がいれば――…
しかし”子”がいなくともこの村は平和だった。
災害もなく、飢えることもなく、侵略されることもなく、争うこともなく。”神問いの子”がいなくともこの村は平和を保っていた。
ならば”神問いの子”なんて必要ないではないか。
”子”がいなくとも村が平和ならば、”子”の存在なんて意味がない。必要ではない。
だったらその”子”を世話しなければいけない、それが役目である”神依りの人”としての自分なんか、もっと意味がない。
それに気付いた時はまだ幼くて、”神依りの人”であることが全てだと思っていた自分の脆き心はたやすく言いようのない不安に襲われ、 底知れない絶望にうちひしがれた。
それから十六年の歳月の中で、いつからか、自分の存在に諦めていた。自分の存在は意味がない。”神依りの人”としての役目を果たせない自分は、 意味がない、”神問いの子”以上に無意味だと。
だが、十六年の歳月を経て――いや、村から考えれば二十年の歳月を経て、”神問いの子”が帰ってきた。
”子”は騎士の格好をしていた。そして、男だった。
最初は信じなかった。”神問いの子”は女しか生まれないはずだから、男である彼は違う、と。しかしマオの占いを見て一転した。
神がすべてを見せてくれた。そしてそれはあの騎士が”神問いの子”であることを示していた。
身体の芯が震えた。それは久しく忘れていた喜びと、興奮がもたらしたもの。
”子”が帰ってきた。”神問いの子”が帰ってきた。自分の存在を意味あるものにしてくれる、”神問いの子”が。
イルの存在を意味あるものにしてくれるのは、”神問いの子”だけ。婚約者のマオでさえそれはできない。
だったら絶対に帰さない。なにがなんでも覚醒させる。自分が意味ある者になるために。
(絶対、絶対…ッ)
心の中で強く決心して目の前に座っているゼルファとヴァンデスキー卿を睨む。二人は昨日から騎士たちとは別の特別宿舎に泊まっていて、 朝の失礼にならない時間を見計らってグレイクと共に二人の所に訪問した。
二人は難しい顔をしてグレイクから差し出された写真を見ている。
「――確かに、似てはいますが…」
ややあってヴァンデスキー卿が口を開いた。まだ朝だからか、今日は皇服ではなく簡素な服を着ている。しかしそれでも上質な生地でできていて、 なおかつ貴族らしい品を備えているが。
「どうも、信じられませんね。ご存知だと思いますが、彼は男です」
やっと写真から目を離して静かな声で言う。
「はい。分かっています。しかし、昨日のマオの占いで神が彼が”子”であることを示してくださったのです。そしてこの方とそっくりなあの顔立ち。 間違いありません、彼が私たちがずっと探してきた”神問いの子”です。男に生まれてしまったのは、きっと…なにかあったのでしょう」
二人が見ている写真を指さしてグレイクがはっきりと言う。二人が見ている写真には美しい女性が映っている。この村でただ一枚だけ残っている”神問いの子” だったクナデの写真だ。
「我々はその占いを見ていませんから――まぁ、我々では見れないでしょうが――ここではっきりとは言えませんが、これだけ彼とクナデ様が似ていれば 血筋の者である可能性は否定できませんが…断言もできませんね。でも、もし、本当に彼が”神問いの子”であるのならば、先ほど覚醒とかおっしゃりましたけど、 どうやって覚醒をするのですか?」
慎重に言葉を紡ぎながらヴァンデスキー卿が訊く。ゼルファは自分には関係ないと思っているのか、話には加わらず窓の外を見ていた。
「それはイルがいますので大丈夫です」
グレイクが目線でイルを指す。
「あなたが…?」
「はい」
静かに頷いて強い光を宿した目をヴァンデスキー卿に向ける。
「私は”神依りの人”です。”神依りの人”とは神を、アヴトゥルナ神をこの身体に依せることができる者のことを言います。 ”神問いの子”を覚醒させるとなら神の力が必要です。そしてきっと私の力も必要となるでしょう。そして覚醒をするなら明日。本来は”神問いの子”の 生誕祭でごす。これほど適した日はないでしょう。この時期にユアン様がここに来られたのは、きっと神の導きでしょう」
「そう、ですね…なにかの縁はあるかもしれませんが…」
難しい顔をして再びヴァンデスキー卿は黙考する。イルは辛抱強くヴァンデスキー卿の顔を見つめ返事を待っている。
(なにを迷う)
おまえの国だって”神問いの子”が必要だろう?ずっと”子”の力に助けられたのだから。
だからこんな遠い南の地までわざわざ赴いたり、こんな小さな村に自治権を与え、そして他国との繋がりを持ってくれているのだろう?
(なにを迷う)
迷うな、すぐに決断しろ。”神問いの子”を欲しているのはお互いさまだろう?
胸が熱い。焦がれるような、切望。こんな感情は初めてだ。初めてだから、堪えきれない。ともすれば感情のままに言葉を口にしてしまいそうになるが、 それを強く拳を握って堪える。
そんなイルに気付かずヴァンデスキー卿はまだなお黙考を続けていた。”神依りの人”の自分を意味ある者にしてくれる、”神問いの子”。 もし反対されても無理やりにでも覚醒させるつもりだ――…
「分かりました。まずは本人にいくつか確認をとらせてもらいます。あぁ、あとカナン・マクスヴェルにも。それで我々が彼が”神問いの子”であると 判断しましたら、彼をそちらに向かわせます」
考えた末、ヴァンデスキー卿は慎重な答えを出した。すぐに賛成しなかったのに不満はあるが、しかし反対されるよりかはましだ。
「勝手に決めるな。俺は”神問いの子”なんてどうでもいいからな。おまえ一人でやれ、ヴァンデスキー卿」
「…そう言われると思っていました。分かりました、私一人で確認をとりましょう」
ため息まじりでヴァンデスキー卿が頷くと、ゼルファは話はもう終わりだ、というように席を立った。そんなゼルファの背中を見てもう一度ため息をつく。
「では、私もさっそく行ってみます。結果は後ほど」
「よろしくお願いします」
結果なんてもう見えている。
イルは頭をさげながら隠れて、いや、自分でも気付かないで笑った。

 遠くで誰かがすすり泣く声が聞こえた。
いつの間にか自分は暗闇の中でぼうっと立っていた。
泣き声のするほうを振り向くと、一人の少女が小さくうずくまってすすり泣いていた。
「なんで…なんで…」
嗚咽まじりに少女は責める言葉を吐く。
「あたしが、あた、しが…だから、あたし…が、…だからッ」
少女の声は途切れ途切れに聞こえてなんて言っているのかは分からない。しかし彼女が自分を責めていることは分かった。
もう一方で赤ん坊の泣き声が聞こえた。そっちのほうに身体を向けると、二人の赤ん坊が泣き声をあげていた。

『どういうことだ?双子だなんて…』
『嫌だわ、不吉だわ』
『どうする?どっちがそうなんだ?』
『女のほうに決まっているだろう!代々女しか生まれてこなかったんだッ。そもそも男が生まれるのが間違っているッ』

赤ん坊の泣き声に混ざって大人たちの言い合う声が聞こえる。

『じゃあこの男のほうはどうするんだ?』
『――この子は本来生まれるはずのない子なんだ』
『かわいそうだけど、しょうがないわね』

その言葉の末に聞こえたのは、身を裂くような赤ん坊の悲鳴。その痛々しさに思わず身体が竦む。
ふと足にわずかな温もりを持ったものが触れた。恐る恐る足元に視線を落とすと、暗闇の中でも何故か見えた、赤黒い色。
悲鳴をあげた気がするが、声に出なかった。鋭く息を呑みそれから逃げるように後退りする。しかしそれは追いかけるように足元を侵食していく。
わずかに温もりをもった赤黒い液体、それは血だった。しかし誰の?
血が流れてくる方向を目で追う。血の先に見えたのは、人の手だった。
再び悲鳴をあげたが、それも声にはならなかった。恐怖で目を見開き、そらしたくても釘を打たれたかのようにそれを見ている。血を流していたのは大人の男だった。
「私が…」
大人の女の声が暗く響いた。声のほうに顔をあげると、自分と同じくらいの年齢の美しい女が静かに涙を流していた。
「私が…だから、私が…だから…も、死んだ…」
悲しみと憎しみに満ちた声が背筋を冷たく撫でる。
「全部私のせいよ、私が二人を殺したんだわ…」
(二人?)
それは誰と誰を指しているのだ?と疑問に思った頃には周りはかすみがかかり始めて、輪郭がはっきりとしなくなってきた。
暗闇は女と自分を覆い、闇の底へと落ちていく――…

 眩しい朝陽に瞼を照らされて意識が覚醒し始める。うっすらと瞼を開けた隙間から眩しい光が差し込み、眩しさにもう一度目を閉じる。
「ん…」
小さく呻いてゆっくりと身体を起こす。目を開けると見慣れた礼拝堂の部屋が目に入った。
あの後疲れてそのまま眠ってしまったのだろう。固い床の上で眠ってしまったから身体のあちこちが軋むように痛い。
「今見た夢…あれ、なんだったの?」
かすれた声でマオは呟く。嫌な夢だった。思い出すと吐き気がして思わず口を押さえる。
血が生々しかった。まだ足に感触が残っているような錯覚。足を引き寄せて見てみるが、やはりあの血はない。
血も気持ち悪かったが、夢の中のあの会話も気持ち悪かった。人の命に関わることなのに、まるで 物のように軽々しく決めてしまう、大人たちのあの会話。人間の嫌な部分を見てしまったような気がする。
気持ち悪さに自分の身体を抱きしめる。すると、
「あ、いた…ッ」
ふいに鋭い痛みが腕を襲ってまだ眠り半分だった意識がいっきに覚醒した。腕を見ると肘から手首にかけて所々に擦り傷があった。
「あぁ、そっか…」
傷を見て昨夜のことを思い出す。本物の”神問いの子”が帰ってきて、自分の役目が終わってしまって、望んでいたこととはいえもう”神問いの子”としての 自分しかないから、それすらなくなってしまう不安から取り乱して、そのまま疲れて眠ってしまったのだ。
「私、なにやってんだろ」
もうここにいてもしょうがないのに、と乾いた笑い声をたてる。笑ってもひどくむなしい。
「帰らなきゃ」
ここにいても惨めになるだけだと思いゆっくりと立ち上がる。その時にアヴトゥルナ神を見上げる。
(もしかしたら、あれって…)
ふとある思いが浮かび上がる。あの夢に出てきた女はあの人に似ていた気がする。もしかしたら、あれは…
(だとしたらどうだっていうのよ)
私にはもう関係ないのですから、そんな夢見せなくても意味ないですよ、と心の中で神の像に呟いてマオはきびすを返した。