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周り一面を炎が囲んでいて、妖しくゆらめく熱の光が網膜を焼く。すでに肌は麻痺していて熱さを感じない。
女たちの悲鳴の中、若い男たちは片手に剣を、片手に盾を持ち果敢に敵に挑む。剣も自身も敵の返り血で赤く染まり、
炎の中で行われているその戦いは、まるで何人もの名だたる画家たちが描いた、地下の世界の絶望を絵に描いたような光景だった。
しかしその中にたった一人、その場に不似合いな女が立っていた。
炎の中だというのに白い肌はくっきりと浮き上がり、黒く豊かな長い髪は周りの激しさを感じさせないほどゆっくりと上質の絹のようにたなびいていた。
華奢な身体をまとう民族衣装はところどころ返り血を浴びていて、それが恐ろしいほど映えていた。
黒い切れ長の大きな目には強い光が宿り、炎で瞳の中が赤く染まっている。
そこが何処であるかを忘れてしまうほど美しい女だった。燃え盛る炎たちも彼女だけは焼くのを避けるようにその触手を伸ばさない。
悲鳴と喧騒の中、一人静寂に包まれている彼女の姿は、一筋の光――希望にも見えた。
ややあって形のいい唇が開かれ、凛と透き通った美しい声をあげた。
――怯むなッ!恐れるなッ!!私の声を聴け!神の声を聴けッ!!さすれば我々の先には勝利が待っているッ!!
その声に男たちは士気をあげるように吠えた。
彼女も男たちに倣って細い身体には不釣合いな大きな鎌を敵に向かって振り下ろす。
それは時間が彼女の動きを刻むことを望んだかのように、ゆっくりと網膜に映り、優雅であるがそれが逆に恐怖を感じさせた。
新たな返り血が彼女の白い肌を染めていく。それでも彼女は穢されなかった。その穢れなき姿は、戦の女神を
連想されるほど美しかった。
――…様ッ!……様ッ!!
記憶の奥底を無理やりこじあけられるような不快感。
「――ン」
遠くで誰かに呼ばれている。呼ばれていると分かっていても瞼が鉛のように重くて目を開けることができない。
視界には既に真っ赤に燃え盛る炎も、倒れる人々も剣を持つ男どもも消えていた。すべてが消えた暗闇の中でただ一人、彼女だけが残っていた。
「…ン、おー…い」
自分を呼んでいる声がカナンだと気付き、返事をしようと口を開けるが舌が痺れてうまく動かない。
(早く)
焦りが胸をついた。早く返事をしなければ。はやくあっちに返らなければ、
早くユアン・マクスヴェル
として戻らなければ!
焦るユアンをまったく気にせず彼女はなにも言わずじっとユアンを見つめている。
「ユアーン。まだ具合が悪いか?一応ご飯持ってきたけど、食べれそうかー?」
食べられるんだったら食べたほうがいいぞー、となにも知らないカナンが言う。軽く肩を揺さぶられてじょじょに意識が現実へと戻っていく。
(あともう少し、あともう少し…)
瞼に全神経と力を向ける。震えながらも開いていく瞼の隙間に光が入り込む。
「……ハァッ」
喉の奥に詰まっていた息を吐き出してようやっと目覚める。深い呼吸を繰り返すと全身の熱がすうっと引いていく。
(なんだ、今の夢は)
一面が炎に包まれていた。あれは見慣れた戦場だった。しかしあの場所、あの彼女のことは知らない。
(だけど、あの人)
誰かに似ている気がする。
「なんだ?どうした?なんか悪い夢でも見たのか?」
ベッドの端に浅く座っているカナンがユアンの顔を覗きこむ。
「――いや、まぁ、そんなものだな」
カナンを見上げて苦笑いを浮かべ、身体を動かす。ただ眠っていただけなのに、見た夢のせいか、身体は重い倦怠感に包まれていた。
「ふーん。ま、それよりご飯持ってきたけど、食べられるか?」
そう言ってカナンは葉のようなもので包まれたものをユアンに見せる。そこからは香ばしい食欲をそそる匂いが漂っていた。
「持ってきたって――え?今何時だ?」
カナンの包みを見て慌てて窓の外を見る。外はもう夜の色に染まっていた。
「えーっと、今は八時だな」
ポケットから懐中時計を取り出し時間を見る。カナンが告げた時間にユアンは驚く。同僚の後を追ってこの宿舎に着いたのが六時。
着いた直後すぐに眠ってしまったため、およそ二時間熟睡していたということになる。
「そんなに寝ていたのか」
三十分ほど寝ようかな、と思っていたのだが予想以上に自分は疲れていたらしい。
「まぁ、それだけ疲れていたっていうことだよ。ジェノ分隊長にはちゃんと言っておいたから。それよりご飯、食う?」
簡単に食べられるように特別に作ってもらったんだぞ、と得意げに言う。
「あぁ、ありがとう」
素直に礼を言ってベッドの端に座って包みを受け取る。二人が泊まっている部屋は簡易なもので、ベッドと荷物を置く棚、
それと服をしまうクローゼットしかない。
包みを開けると白いご飯と香ばしい肉と山菜のようなものが挟んである手軽に食べられるものが三つ入っていた。
「へぇ、変わっているな、これ」
初めて見る料理を一つつまんで観察するように色々角度を変えて見る。
「そうそうそう。この村じゃあ狩りに行く時に持っていく料理なんだって」
「へぇ…」
「作っている時俺もいっこ貰ったけど、けっこー美味かった」
ほら、食べてみろ、とカナンが促すので一口食べてみると、口腔いっぱいに肉の香りが広がり、なにか香辛料をたくさん使っているのか、
少し辛いが、でもそれが山菜と合っていて確かに美味しかった。
「ほんとだ」
「だろ?材料はどこにでもあるものだから、カヴァリラステーネでも作れるって言ってた。だから帰ったら母さんに作ってもらおうぜ」
レシピはおおかた覚えたから、と笑うカナンをぼうっと見つめる。
「――あぁ、そうか、帰るんだよな」
忘れていた、というように呟くユアンにカナンは目を丸くする。
「は?当たり前だろ?祭りが終わったらすぐに帰るんだよ――って、大丈夫か?寝ぼけてんのか??」
顔をしかめて首を傾げるカナンに、ユアンはそうだな、と笑ってもう一口運ぶ。
(なに言ってんだか)
香ばしい肉と香辛料の匂いを堪能しながら心の中で暗く呟く。
(なんで)
きっと今日着いたばかりだから。
(なんで帰るなんて)
帰ることを思わなかったのだろう。
祭りが近くなってここのところずっと不機嫌だったカエが、両親からの知らせを聞いていっきに顔を輝かせた。
「へぇ〜、”神問いの子”が帰ってきたんだッ」
夕飯を食べる手を止めて弾んだ声で言う。隣で静かに夕飯を食べていたリネはさっと顔を強張らせた。
「あぁ。長老がそう言っていた」
カエと顔立ちが似ている父親が真剣な顔で頷く。
「ふーん。”神問いの子”って本当にいたんだぁ。まぁそうだよね。いなきゃマオが身代わりなんかやらないわよねぇ」
嬉しさを隠しきれない声で身代わりの部分をわざと強調する。その言い方にリネは不快感を覚えた。
(”神問いの子”、帰ってきたんだ)
まだ見ていないから、そして”神問いの子”を知らないから実感はわかない。けれども――…
(じゃあマオは?)
”神問いの子”ではないマオはどうなるのだろうか。
「で、マオはどうするの?」
リネの疑問を読み取ったようにカエが訊く。もっともリネのように心配して訊いているのではないが。
「あぁ。もちろん役目は終わりだよ。本物の”子”が帰ってきたのだからな。明日あたりにでも長老が”子”の覚醒に向けて動き始めるらしい。
早く動かないと向こうに帰られてしまうからな。村のためにも、”子”は覚醒させないと」
「そうッ。そうよねぇ、いくらマオが村で一番の御子と言っても本物じゃないんだものねぇ。
本物には遠く及ばないものねぇッ。本人もずっと辞めたがっていたわけだし、良かったじゃないッ」
こらえきれずカエは哄笑をあげた。同じ姉妹でありながらなにをとっても自分より――いや、他の村の者たちにも――秀でているマオにも、
敵わないものがあることが嬉しいらしい。興奮でそばかすだらけの頬が赤く染まっている。
その横顔をリネは醜いと思った。顔だけではない、カエのその心も。
なにがおかしいのだろう、なにが嬉しいんだろう、何故笑っているんだろう。
(カエなんか嫌いだ)
大嫌いだッ、と心の中で吐き出してふとマオの美しい顔を思い浮かべる。
(マオが帰ってくる)
それは嬉しい。祭りの準備が始まる前の時のようにまた一日中一緒にいられる。カエと一緒はもう嫌だ。
(だけど、マオの”神問いの子”が終わっちゃう)
マオが”神問いの子”でなくなってしまう。本物が帰ってきたのだから。マオはもう”神問いの子”ではない。
音をたてて頭から血の気が引いていく。胸が締め付けられて喉が苦しくなる。
(嫌だ、嫌だッ)
マオは”神問いの子”だ。マオが”神問いの子”だ!マオ以外の”神問いの子”なんかいらない!マオがいいッ!!
けれど両親も、カエも”本物”の”神問いの子”を望んでいる。いくら嫌がっていても子供のリネにはなにもできない。
自分の無力さと絶望で涙が出そうになった。
目の前を深い暗闇が覆っている。
それは夜の闇ではない。それは絶望の闇。
少女は身を守るように膝を抱え込んでじっと座っている。
光を宿さないその目は闇の底を見るように足元に落としている。
(なにやっているんだろう)
抗い難い脱力感が全身を襲う。小指一本動かすのでさえ億劫だ。
(私、なにやっているんだろう)
やっと瞬きをすると覚醒したようにゆっくりと顔をあげる。目の前にあるのは優しい笑みを象った神の像。
明かりのない暗い礼拝堂の中でも、その姿は美しく浮かび上がっていた。
「私、なにやっているんだろ…」
アヴトゥルナ神の像を見上げて震える声で呟く。
ゼルファとの顔合わせが終わった後、しばらくしてグレイクとイルが再びここに来た。なんでもあの騎士たちの中にクナデの子、つまり”神問いの子”が
いるかもしれない、本物かどうか占って欲しい、ということで。
それを聞いた瞬間マオは自分を助けたあの騎士を思い浮べた。もしかしてと思いグレイクに訊いたら、グレイクは興奮気味にそうだ、と頷いた。あの方は
とてもクナデ様に似ている、いや、生き写しのようだ、と。
確かにあの騎士は中性的なきれいな顔立ちをしていた。しかしあの騎士は男だ。”神問いの子”は女しか生まれないのではなかったのだろうか?
疑問に思いつつもマオは占いをした。”神降祭”が近いということもあって御子の力が高まっているからきっと占いは成功するだろう。いつものように
占いを始めたその瞬間、この礼拝堂は違う物に変わった。
マオたち御子は神の力に触れて占いをする。占いが出る形はその時々によって違うが、過去を占う時は大抵映像で現れる。それは神の記憶に触れるからだ。
今回出た映像は今までにないくらい鮮明だった。それが過去の映像であることを忘れてしまうくらい。
見たことがない部屋の中で美しい女が生まれたばかりの赤ん坊を抱いて涙を流していた。
その女はあの騎士とそっくりの顔立ちをしていた。
涙を流しながら浮かべたその表情は悲しみと嬉しさをないまぜにしたような笑みだった。その理由は分からない。しかし新にこの世に生まれ出た子に対する
喜びの笑顔にしてはあまりにも悲しいものだった。
そこで一旦映像が途切れた。一瞬の闇の後に現れたのは、今自分たちがいる礼拝堂だった。
アヴトゥルナ神の像の前で彼女はうずくまっていた。よく見ればその身体は小刻みに震えていた。
美しい顔は青ざめ、まるでなにかに怯えているようだった。
視線を落とすと彼女の腹は大きく膨らんでいた。二の腕や顔の輪郭が細いところから見ると彼女は妊娠しているのだろう。
しばらく震えた後、彼女はアヴトゥルナ神の像を見上げた。その瞬間、黒い目になにかを決意したような光が宿った。
震える足を叱咤して彼女は立ち上がった。そしてアヴトゥルナ神に背を向けて、彼女は礼拝堂を去っていった。
そこで映像は消えた。しかし充分だった。
神がこれを見せたということは、あの騎士が”神問いの子”であるということを示したのだ。
”神依りの人”であるイルもこの映像が見えていた。彼にしては珍しくやや興奮した口調で
グレイクに見た映像のことを詳しく教えた。
グレイクはおおいに喜んだ。”神問いの子”がついに帰ってきてくださった、と。しかしあの様子だと自分が”神問いの子”であることを知らず、
力も覚醒していないのだろう、村の将来のためにも早く覚醒させよう、と言った。
具体的な案は決めずとりあえず村人に報告しようと、グレイクはすぐに神殿を降りた。イルは興奮冷めやらぬ状態でマオに言った。
”神問いの子”は本当にいたのだな、と。ならば私の――”神依りの人”の存在は無意味ではない、と。
マオはその時、そうね、と笑った気がする。そしてその笑顔は強張っていた気がする。
本当は笑えなかった。ともすれば消えてしまう表情を無理して笑顔の形にした。
冷たいものを呑みこんだかのように、身体の芯が冷たくなった。頭の中は真っ白になり、目の前は真っ暗になった。
あの騎士が”神問いの子”であるということは、彼を覚醒させるということは、もう自分は”神問いの子”の身代わりをしなくていい、ということだ。
それはずっと望んでいたこと。幼い頃からずっと早く”神問いの子”が帰ってきて、早くこの役目から解放されたい、と切実に願ってきた。
それが十二年経った今、望みが叶って”子”は帰ってきた。
なのにマオは喜べなかった。喜びで胸が熱くなるどころか、絶望に似たものが身体を襲って体温を奪っていった。
何故絶望を感じなければならないのだろう。ずっと望んできたことではないか。
やっと役目から解放される。もう緊張に震えることはなくなるのだ。もう凛としなくてもいい、強がらなくてもいいのだ。
そうだ、もうあんな恐い思いをしなくなるんだ。あんな、いきなり剣で斬りかかられることなんか、なくなるんだ。
ゼルファのことを思い出して身を震わせる。
恐かった。タトュの民族は自分の村を守るため、元々戦闘能力が高く剣などどこの家にでもあるのだが、斬りかかられたことは初めてだった。
ゼルファのあの目は本気だった。本気でマオを斬る気だった。あの目を思い出すと条件反射のように身体が恐怖を思い出す。
けれど、”神問いの子”が終わればそんな思いもしなくなる。そう、あんな恐い思いしなくていいんだ!
元に戻れる。やっと元に戻れる。元に戻って普通の――…
(戻る?何処に?)
そんな疑問が頭をもたげた。
元に戻る。何処に?元とは何処だ?
(普通って、なに?)
普通というのはどういうのだろう?いったいなにが普通なのだ?
(私、私は…)
幼い頃から”神問いの子”であることを望まれ、”神問いの子”の身代わりをしてきた。十二年も。
”神問いの子”であること、”神問いの子”として振舞うことが今までの生活であり、それがマオにとって普通だった。
(私は…ッ)
足元が音をたてて崩れていく。その音が耳の鼓膜にこびりつく。
暗闇に放り出された錯覚。自分が今何処にいるのかさえ、分からない――思い出せない。
望んできた望んできた。
この役目から解放されることを。
望んできた望んできた望んできた。
周りの村人と変わらない普通の生活に戻ることを。
しかし、そこに戻れない。何故なら今までその生活をしてきていなかったから。
戻れない戻れない。
(違う)
戻れない戻れない戻れない。
(戻れないんじゃない、私は)
ずっとそこにいなかった。
”神問いの子”であることが、すべてだったから――…
「 ッ」
言葉にならない、獣じみた悲しい咆哮が静寂に包まれた礼拝堂の空気を切り裂いた。自分を壊すかのように腕を振り落とし床を殴る。
身体の奥底から熱いものがこみあがり、喉から迸って悲鳴に似た咆哮になる。
何度も何度も血が出るほど叫び、自身を壊すように何度も何度も床を殴った。
痛々しい音が礼拝堂に響く。何度も自分を痛めつける彼女を優しい笑顔を象った、
その表情しかできないアヴトゥルナ神が見下ろす。その笑みは気のせいか、深い悲しみを湛えているように見える。
しかしマオはそれに気付かず叫び続けた。この瞬間、すべてが壊れてしまえばいい、と心の底から望みながら。
その夜、彼女の悲しみに呼応したかのように雨が降った。雨季でもないのに降った雨に村人たちは驚いた。
しかし雨の音は彼女の悲しい叫びをかき消すことはできなかった。
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