いつもこの時になると緊張で胸が痛くなる。
アヴトゥルナ神の像を目の前にしてマオは震える身体を抱きしめながら深呼吸を繰り返した。
(大丈夫…大丈夫…)
震えていては駄目だ。怯えていては駄目だ。気丈に、凛と振舞っていなければ、この役が終わってしまう。
(大丈夫。私は”神問いの子”よ、”神問いの子”ができるのは、私しかいないんだから)
震える息を吐き出しながら自分に暗示をかけるように心の中で言う。
 マオがただの御子でありながら”神問いの子”に選ばれた理由は、器量の美しさと御子としての力を買わたからだ。
タトュの民族は誰でも御子の力を持っている。タトュは古語で”御子”という意味であり、御子というのは 一般では占い師をさすが、この村では”神の力に触れられる者”という意味である。タトュの民族は神の力に触れて占いをする。
マオは幼い頃から村で一番の御子だった。そして器量が良かった。
”神問いの子”は神と人間の子供であるから、まるで女神のようにとても美しい人だったらしい。本物に劣るとはいえ、マオは子供の頃から美しかった。だから選ばれた。
幼い頃から”神問いの子”であることを義務付けられていた。常に”子”らしく気丈に凛と振舞えと両親に、 長老に言われてきた。何度か過度の緊張により失敗して 占いができなかった時もあったが、それでも周りはマオが”子”であることを強要した。
身代わりなんかやりたくない、幼い頃は何度もそう思った。 ”子”である自分に周りの者は慕ってはくれたけれど、やはりどこか遠慮をしていた。 まるで腫れ物に触れるかのようにマオと接していた。
本物の”子”を知らないで育った同年代の者たちはマオを胡乱うろんな目で見ていた。
それらに耐えられなくなって何度も何度もやめたいと訴えた。 けれどいつも返ってくる言葉は同じ。”子”が帰ってくるまでの辛抱だから。 今はマオしかできないのだから。村のためにどうか我慢して欲しい。
幼い頃はひたすら我慢して”子”が帰ってくることを待った。早く帰ってきて欲しい、早く帰ってきて欲しい、と。しかし願いはむなしく時は無情に流れ、 ”子”になってから十二年が経ってしまった。
十二年という月日はマオを諦めさせるには充分な時間だった。先ほどイルにはあんなことを言ったが、もう”子”はいないのではないか、と思っている。 いや、その存在自体がいないのではないか、と。
しかし自分がそれを否定してしまったら、自分が今の自分を否定することになる。今まで我慢して”子”でいたことが、無意味になる。
だから言葉ではいることを望んでいるように言ったが、心の中ではもう諦めていて、いようがいまいがどうでもよくなっていた。
 ふいに後ろから扉がノックされる音が聞こえた。マオは我に返って顔をあげる。
目に入るのは柔らかで優しい笑みを象られた神の像。
目を閉じて再び深呼吸をする。大丈夫、いつものように凛としていれば、大丈夫。緊張なんかしては駄目――もう一度自分に言い聞かせて大きく息を吐き出す。
「――どうぞ」

 木製の大きな扉が開いた途端、視界がいっきに拓けた。
七階建ての最上階にある礼拝堂は七階をすべて使っているらしく、 廊下や階段の狭さからいっきに解放感を覚えた。その広さは騎士団の一隊が入っても余裕があるくらい広く、 天井も先が見えないくらいに高い。
しかし礼拝堂といえど、あまり飾りっけはなく、この広い空間の中にあるのはアヴトゥルナ神を象った像と祭壇だけ。 アヴトゥルナ神の像の上にはステンドグラスが飾ってあり、 この礼拝堂の中の唯一の飾りと言えるものだった。
(ここが礼拝堂)
薄暗いな、と心の中で呟きながらユアンは失礼にならない程度に顔をめぐらせて周りを見る。もう日が傾き空が赤く染まってきたが、まだ明かりは灯されていない。
「ようこそおいでくださいました」
静寂の中、澄んだ女の声がした。その方向に目を向けると、アヴトゥルナ神の像の前に一人の美しい少女が立っていた。
(あれが、”神問いの子”…?)
遠くにいる”神問いの子”は、まだ少女だった。
黒く豊かな長い髪に、この民族特有の褐色の肌。露になっている細い腕には先ほどタトュの大木で見た刺青が入っている。
黒くて大きな目と形のいい唇にはには優しい笑みが湛えてあり、その笑顔は成熟した大人のそれを思わせたが、やはりどこかあどけなさが残っていた。
細い身体には白い見ただけでも上質の生地でできていると分かる薄い服を着ていて、ところどころに色々な装飾が施されている。
(なんだろう)
”神問いの子”のことについては任務を言い渡されてから少し調べた。神と人間の間の子に生まれし、神の声を聴くことができる者。
デュッセンブルク皇国では”戦御子”として崇められ、大きな戦の時は必ずその姿があったという。
しかし”戦御子”ながらその容姿は見る者に神を連想させるほど美しく、そして十四年に一度歳をとるという不老長寿。 ”子”は死ぬ時も老いないという。
神の声を聴き、神と同等の力を持つ者。目の前の少女がそれだという。
(なんというのか…)
”神問いの子”を信じているわけではないが、そして知っているわけでもないが、目の前にいる少女が”神問いの子”だとは信じられなかった。 信じられない、というより違和感を感じる。何故だか分からないが、この少女は違う、と思った。
(”神問いの子”ことなんて知らないのに・・・)
心の中で首を傾げていると、少女は足音をたてずゆっくりと近付いてきた。そしてゼルファの前で片膝をついて礼をする。
「デュッセンブルク皇国の次期皇帝になられる、ゼルファ様でございますね?私はマオと申します」
胸に手を当てて深々と頭を下げながら”神問いの子”――マオはは言った。
「デュッセンブルク皇国第三皇子・・・・、 ゼルファ・グアン・フォンハルニアだ。おまえが”神問いの子”か?」
第三皇子であることを強調してゼルファが言う。
「はい。ですが私のことはマオと呼んでください」
ユアンが違和感を感じていることを知らず、少女は”神問いの子”であることを認めて、顔をあげてゆったりと微笑む。
「ヴァンデスキー卿様、お久しぶりです」
ゼルファからわずかに身体をヴァンデスキー卿に向けて挨拶をする。
「お久しぶりです、マオ様。今年もまたお世話になります」
「えぇ。長旅で疲れたでしょう。祭りまでゆっくり休んでください」
(ん…?)
ユアンは社交的な挨拶を交わしている二人の横顔をゼルファが感情を殺した目で見ているのに気付いた。
「――”神問いの子・・・・”」
抑揚のない低い声でゼルファがマオを呼ぶ。 その声に背筋が粟立あわだち、わけもなく胸がざわめいた。
(いけないッ)
まだゼルファは呼んだだけなのに、ユアンにはゼルファがこれからやろうとしていることが分かった。 まだ呼ばれた当人も、ヴァンデスキー卿も、そして周りの 誰もが気付いていない中、ユアンだけが気付いた。氷を呑んだように身体の芯が冷たくなった。
ゼルファはなにも言わず腰にたずさえていた二本の剣を外し、有無を言わさず一本をマオに押し付けた。
「え…?」
「いけませんッ!ゼルファ様ッ!!」
ユアンが制止の声を叫ぶのと、ゼルファが残ったもう一本の剣を抜くのは同時だった。
腰を低く落として弧を描くように宙をぐ。空気を斬る鋭い音がその速さを物語っていた。
周りの者はなにがなんだか分からず――けれど絶望に似た危険を感じて咄嗟とっさに目を瞑った。悲鳴も あげることができず息を呑む中、金属と金属がぶつかる音が礼拝堂に響いた。
ゼルファの剣の先にいたのはつい今さっきまで彼の後ろにいたユアンだった。そしてユアンが携えていた剣がゼルファの剣を受け止めていた。
金属音が尾を引きながら空気の中に消えると、張り詰めた静寂が訪れた。
「――いけません、ゼルファ様」
荒い息をしながらユアンがもう一度言う。
ゼルファがマオを呼んだ時、何故かゼルファがマオに剣を向ける、と、直感で分かった。
背筋が粟立って、胸がざわめいて――考えるよりも先に身体が動いていた。
ヴァンデスキー卿の身体を押しやり、マオの前に身を躍らせて、皇族が相手であるということも忘れて剣を抜いて受け止めた。
それまでの間にいったいどれだけの時間がかかっただろうか。間に合ったことが自分でも信じられない。
心臓が早鐘はやがねを打つ。呼吸が弾み、汗が首筋から背中を伝う。ともすれば震えそうになる身体に 力を入れて、剣を押し返す。
そこにきてようやく事態が飲み込めた周りが震える息を吐き出した。
「申し訳ございませんでした」
剣を鞘に収めてユアンは深く頭を下げる。しかしゼルファはなにも言わずちらりとマオを見る。
押し付けられた剣を抱くように持ち、立ちすくんでいた少女はかわいそうなほど青ざめて震えていた。
「――ふん、これが戦御子・・・の姿か」
つまらなそうに言って剣を鞘に収める。それを見て周りが安堵あんどのため息をついた。
「ぜ、ゼルファ様…貴方はなんてことを…ッ」
我に返ったヴァンデスキー卿が震える声でゼルファに詰め寄る。常に冷静沈着を保っているヴァンデスキー卿も、さすがに このゼルファの行動には冷静でいられなかったらしい。顔は青ざめていて表情が厳しい。 しかしゼルファはまったく相手にせず、つまらなそうに震えている少女を見ていた。
「神の声を聴き、神の声を伝え、騎士たちを勝利に導く戦の御子。どのようなものか試してみただけだ」
「だからっていきなり――ッ」
「神の声が聴こえるんだろう?だったらこれぐらいかわせたはずだ」
ゼルファが言い終わるや否や、乾いた音が宙を打った。
「あなたには気に入らないことがたくさんあるでしょうが、いいかげんにしてください」
頬を打った手をおさえながら押し殺した声でヴァンデスキー卿が言う。ゼルファは頬を打たれたまま、無表情な目でヴァンデスキー卿を見返していた。
「たかが外務卿ふぜいで皇族に手をあげるとは何事だ。不敬罪でひっぱるぞ」
「今はそんなことを――…ッ」
「それにいいかげんにするのはおまえらのほうだ!あれを見ろッ!あの剣の持ち方、あの構え方! いくら軟弱な文官といえど、剣の構え方ぐらいは知っているだろう?!なら訊く、あれが戦御子の剣の構え方か?! 俺は”神問いの子”というのが信じられない。だからこの目で確かめたッ!これがその結果だ」
「――ッ」
言葉に詰まりヴァンデスキー卿は唇を強く噛みしめた。眉間に深い皺を刻み、険しい表情でゼルファを睨む。その表情の裏には数多の言葉が渦巻いているように 見えたが、ヴァンデスキー卿はそれらを口にしなかった、いや、できなかった。
「しょせん神話は神話。夢見がちな奴らが好き勝手に都合よく作った物語だ。今まで我が国が――いや、歴代の皇帝がそれに振り回されていたと思うと、嘆かわしいッ」
唇を歪めて吐き捨てるが、ヴァンデスキー卿はきつく唇を閉ざしたままである。痛いほど張り詰めた空気が礼拝堂を支配した。
「まぁ、本当に昔”神問いの子”という者が存在していたとしても、そこの女よりユアン・マクスヴェルとやらのほうが”神問いの子”らしかったな」
嘲笑を浮かべて尚も怯えている少女を見遣る。目が合うと少女は大きく身体を強張らせ、無理やり押し付けられた剣をきつく抱きしめた。
ゼルファは一つ鼻を鳴らし、マオに近付く。マオは震えながらもそれに合わせて身体を後に引く。その反応にゼルファは顔をしかめ、強引に腕を伸ばして マオが抱きしめている剣を奪う。マオは短い悲鳴をあげた。
「――顔合わせは済んだ。出るぞ」
二本の剣を再び自分の腰に携えると、ゼルファはもうマオを見ることなく身を翻した。礼拝堂の出口へと向かう皇太子に数人の騎士が慌てて付いて行く。礼拝堂に 久しぶりの静寂が訪れた。しかしそれは多くの気まずさを残したもの。
ややあって黙然と立ち尽くしていたヴァンデスキー卿が深いため息をついて、沈黙を破った。
「我が国の皇太子が突然あのようなことをしてしまい、まことに申し訳ございませんでした。あの方はその…慣れぬ長旅で疲れていて気が立っていたのでしょう。 どうかご寛恕かんじょくださいませ」
未だ怯えている少女に向き直ってヴァンデスキー卿は深々と頭を下げる。
「い、いえ…。あ、あのッ、わ、私は…ッ」
意味もなくゆるくかぶりを左右に振り、なんとか言葉を紡ごうとしたが、まだ怯えが尾をひいているのか、 ついに形にならず少女の中に消えていってしまった。
「――ゼルファ様も出て行ってしまったし、顔合わせはこれで終わりということで、よろしいでしょうか?村長」
先ほどから言葉もなく茫然と立ち尽くしているグレイクに訊くと、グレイクは大きく身体を弾かせやっと我に返ったかのように「あ、あぁ…はい」と、 形が定まっていない返事をした。
「で、ではもう宿舎でゆっくりと長旅の疲れをとってください。騎士様たちの宿舎はイルに案内させます」
動揺から立ち直るように早口に言葉を紡ぎ、さっきからひっそりと立っていた若い男を指す。先ほどから影のようにあまり存在を示さず一行に付いてきたこの若い男は、 そういえば一人だけ静寂と沈黙を始終保っていた。
「はい。では案内します。どうぞ付いてきてください」
「ヴァンデスキー卿様は私がお供します」
二人がそれぞれを促す。イルのあとに分隊長のジェノが続き、我に返った同僚たちも続く。
しかしユアンは杭に打たれたかのようにその場を動くことができなかった。
「ユアン?」
なかなか動こうとしないユアンにカナンは声をかけるが、聞こえなかったのか、ユアンはなにも反応をしなかった。感情のない暗い目で瞬きもせず足元を見ていた。

『まぁ、本当に昔”神問いの子”という者が存在していたとしても、そこの女よりユアン・マクスヴェルとやらのほうが”神問いの子”らしかったな』

先ほどのゼルファの言葉が頭の中で螺旋を描いて回る。
(私は…私は…)
ふいに足元が崩れて身体が浮遊しているような錯覚を覚えた。
いつの間にか闇がユアンの身体をとりまき、この闇の空間に一人放り出された――不安定感、この感覚をユアンは経験したことがある。
なにもない暗闇なのに感じる、
不安、
焦燥、
恐怖、
――孤独。
見えない手で喉を絞められているように呼吸が苦しい。わけもなく胸の奥底が震える。
少しでも力を抜けば崩れ落ちそうになる、不安。
身を灼くような、焦燥。
僅かな音でも身が竦みそうになる、恐怖。
一人取り残されたような、孤独。

『まぁ、本当に昔”神問いの子”という者が存在していたとしても、そこの女よりユアン・マクスヴェルとやらのほうが”神問いの子”らしかったな』

なんてことのない揶揄やゆの言葉。なのにどうしようもなくユアンを揺さぶる。
(私は…私は…ッ)

『               』

「――は……の、子…」
自分の意思とは関係なくかすれた声が絞り出る。闇に飲み込まれて意識が遠のきそうになる。

「ユアンッ!!」
突然聞き慣れた声が自分の名前を呼び、その声がいっきに闇を払拭ふっしょくした。
闇の後は視界が白染まりそれが眩しくて、一瞬眩暈が襲った。
「――あ…」
ぼやけた視界に焦点が合うと、目に入ったのは心配そうに自分の顔を覗いているカナンの顔だった。
「カナン…?」
「おい、大丈夫か?具合が悪いのか?すっごく顔色が悪いぞッ」
熱を測るように額を手を当てる。その時になって自分が尋常ではない汗をかいていたことに気付く。
「いや、大丈夫だ…少し暑さでぼうっとしていただけだ…」
柔らかくカナンの手を下ろして、ぎこちなく笑う。
「そうか?顔が真っ青だぞ?」
「たいしたことない…でも、そうだな、あとはもうすることないんだろ?宿舎で少し休むよ」
「あぁ。そうしたほうがいい」
心配で険しい表情を浮かべたままカナンが頷くとユアンも頷き返して、動かなくて錆びついている足をやっと動かす。
「あ、あのッ」
先に出て行った同僚の後を追おうと部屋を出ようとすると、後ろから少女の声が呼び止めた。振り返るとまだ尚青い顔をしたマオがユアンを見ていた。
「あの、あ、ありがとう、ございました」
やっと幾分か落ち着きを取り戻したらしい少女は遅まきながらユアンに礼を言う。
「いえ…その…私が言うのもなんですが、このたびのことは本当に申し訳ございませんでした」
マオのほうに向き直り深々と頭を下げて詫びると、マオは力なく頭を振った。
二人はマオに軽く会釈をして礼拝堂を出る。 そこには長い階段しかなく、誰の姿もなかった。どうやら二人が付いてきていないことに誰も気付いていないらしい。
それを幸いにユアンは詰襟の部分を緩める。その内側は汗でぐっしょりと濡れていた。
(なに動揺しているんだか)
眉間に皺を寄せて険しい表情で足元の階段を睨む。
自分でも何故あんなふうになってしまったのか、分からない。
ただゼルファのあの言葉はユアンの胸を強く突いた。その衝撃に足元からぐらついて、どうしていいのか分からなくなって、情けないほど動揺してしまった。
(しっかりしろ)
心の中で自分を強く叱咤する。
(私は、ユアン・マクスヴェルだろ)
決して――の子ではない、と無意識に名前が出たが、すぐにその名前は消えてしまったため、 自分でもなんていう名前を出したのか忘れてしまった。