陽射しの強さをステンドグラスが和らげ、淡い色が金属で象られたアヴトゥルナ神を彩る。
アヴトゥルナ神の前で一人の老人が跪いて手を組んでいた。村の中心にある神殿だが、最上階にある礼拝堂には人々の声がまったく届かず、常に静寂を保っている。
「――今年も”子”がいないまま祭りが行われますな」
静かな声で目の前の神の像に話しかける。
「クナデ様がいなくなられて早くも二十年…もうクナデ様はこの世からいないでしょうが、新たな”子”は今どうしているのでしょうか?」
老人が話しかけても神は、人間によって象られた笑みを浮かべるだけでなにも答えない。
「三年前からマオが身代わりをしていますが、やはりあなた様の声を聴くことができるのは”神問いの子”だけ。 いくら皇帝陛下の了承を得ているからといって、もうそろそろ限界です。皇帝陛下は次の皇帝を決められました」
老人は深いため息をつく。口元にたくわえている銀色のひげがわずかに震えていた。
「次期皇帝は第三皇子のゼルファ様に決まったそうです。なんでもゼルファ様は根っからの武人であるらしく、 その…唯物主義ゆいぶつしゅぎというのでしょうか、あまり神という存在を信じていないでそうです。 我が村の若い者たちにも”神問いの子”の存在を疑う者もいるぐらいですから、外部の方が信じられなくてもしょうがないことなのでしょうが…」
一回言葉を切って悲しそうに目を伏せる。なにを言っても微笑を浮かべるだけの神。なんとも言えない寂しさとむなしさが胸を占める。
「そのゼルファ様が皇帝として立たれた時、その時になっても”子”が戻らなかった場合、私たちはどうなるのでしょうか?”子”の存在を 否定され、自治権は奪われ、完璧にデュッセンブルク皇国の支配下に置かれてしまうのでしょうか?それとも、捨てられるのでしょうか…」
先のことを想像すると不安でしょうがない。自分はもう後が長くないが、残る村の者たちはどうなってしまうのか、この村の将来はどうなるのだろうか。
自治権を持っていると言っても、小国のような扱いになっていても、やはりデュッセンブルク皇国の力に頼っているところがある。 村では手に入らない生地や、鉱物などの仕入れはデュッセンブルク皇国を通して他国としている。もちろんデュッセンブルク皇国とのやりとりもある。
元々貨幣がなかった村に貨幣を作り、村を豊かにしたのもデュッセンブルク皇国のおかげだ。そしてそれは”神問いの子”がいたからだ。
”神問いの子”の力を貸すことで今の豊かな生活を維持してきたのだ。しかしもう二十年前から”神問いの子”はいない。
新しい皇帝に”神問いの子”の存在を否定されてしまったら、この生活はどうなるのだろうか?村はどうなってしまうのだろうか?
「早く、早くお戻りくださいませ…ッ、”神問いの子”よ」
老人の哀願する声は、むなしく礼拝堂の中で響くだけだった。

 「あぁ、見えてきましたね」
窓の外を眺めていたヴァンデスキー卿がなにかを見つけ、声を漏らす。
「なにが、ですか?」
それまでずっとヴァンデスキー卿の話の相手をしていたユアンが訊く。
「”タトュの大木”です。タトュの村への道しるべです。これが見えたということは村まであともう少しということです」
ヴァンデスキー卿が指さすほうに視線を向けると、いくつかの大きな木が目に入った。その木々たちは他の木とは違って、幹の部分に独特の模様が入っていた。
「あの模様みたいなものはタトュ民族の刺青です。タトュ民族は腕などにあのような刺青をいれているのですよ」
柔らかな口調で丁寧に説明してくれるヴァンデスキー卿の言葉を聞きながら、ユアンは惹き付けられるようにじっとタトュの大木たちを見ていた。
――と、その時、

『             』

「――帰ってきた、ワタシの愛し子」
「…はい?」
突然なにか言い出したユアンにヴァンデスキー卿は顔をしかめる。向かいに座っていたカナンも目を丸くしてユアンを見ている。
「…え?」
二人の視線に気付き、ユアンは我に返る。一瞬だけ夢を見ていたような、そんな感じだった。
「どうしたのですか?」
「え?」
「今、おかしなこと言いましたけれど…」
「おかしなこと?」
ヴァンデスキー卿に言われて、ユアンはそういえばなにか口にしたことを思い出す。しかし不思議なことになにを言ったのかは思いだせない。
「ワタシの愛し子、とか言っていましたが」
「は…?」
――ワタシの愛し子?
(なんだそれ?)
ユアンは口元に手をあてて今さっきまでのことを思い出す。
あのタトュの大木たちを見た瞬間、頭の中が急に真っ白になった。真っ白になって、夢の中に落ちたように身体が浮遊している錯覚を覚えた。
その時、真っ白な頭の中にある言葉が浮かんだ。浮かんだ、というより、声になっていない声が聞こえたのだ。 淡い靄がかかったような、不思議な声。自分の思考なのか、誰かの言葉なのか分からない、不思議な感覚。
それがおそらく、ヴァンデスキー卿が言った「ワタシの愛し子」なのだろう。
(なんだ、それ…)
言葉の意味が分からない。何故そんな言葉を言ったのかも分からない。
「――申し訳ございません。自分でも何故そんなこと言ったのか、分からないです」
とりあえず苦笑いを浮かべて謝る。ヴァンデスキー卿は「いや、まぁ、いいか」と首を振ってなかったことにしてくれた。
視線をカナンのほうに向けると、カナンは「大丈夫か?」と目で訊いた。ユアンも声に出さず目で頷く。
(ワタシの愛し子、ワタシの愛し子…)
心の中で自分が口にしたらしい言葉を反芻はんすうする。
(ワタシ?ワタシって誰だ?)
自分ではないことは確かだ。愛し子というのにも心当たりがない。
背筋が寒気が走ったかのように粟立った。
(なんだ?)
理由の分からない恐怖が不安が、ユアンを襲った。

 村と森を隔てる大きな扉が重い音をたてて開いた。まず真っ先に目に入ったのは、高くそびえ立つ石造りの塔のようなものだった。木造の民家が並ぶ中で 堂々と立っているその塔は異質な存在だった。
(知っている…?)
塔を見た瞬間、ユアンは何故かそう思った。そしてこれが神殿であることも、知っていた・・・・・
(おかしい…なんでだ?)
この村に来たのは初めてだ。タトュという名前、この村の存在自体この任務のことを言い渡された日に知ったのだ。それはつい一週間前のこと。
それなのに自分はこの村を知っている・・・・
(なにかの文献で見た、とか?)
ではこの既視感はなんだろう?文献ぶんけんで見かけただけにしてはリアルだ。
馬車が門をくぐり、ゆっくりと止まる。カナンが扉を開け最初に降りる。それに続いてユアンも降りて、その次にヴァンデスキー卿、最後にゼルファが降りた。
仲間の騎士たちが道を開け、今度はゼルファとヴァンデスキー卿の後ろを二人が歩く。
目の前には大勢の村人がいて、その一番前にいる老人が穏やかな笑みを浮かべて来訪者を迎えた。
「お久しぶりです、グレイク長老」
穏やかな声でヴァンデスキー卿が挨拶をし、握手を求めて手を差し出す。
「お久しぶりでございます、ヴァンデスキー卿様。変わらずご壮健そうでなによりです」
両手で包みこむように握手をして、グレイクと呼ばれた老人はゼルファのほうを見る。ゼルファは背筋を伸ばして毅然とした態度でグレイクを見下ろしていた。
「初めまして、ようこそタトュの村においでくださいました。私はこの村の村長をしております、グレイクと申します。以後お見知りおきを」
ヴァンデスキー卿よりもさらに丁寧な言葉遣いで挨拶をする。
「祭りの準備で忙しい中の出迎え、感謝する。デュッセンブルク皇国第三皇子、ゼルファ・グアン・フォンハルニアだ。これから三日間世話になる」
張りのある堂々とした声が響く。グレイクは眩しそうにゼルファを見上げ納得したように何度も頷く。
「グアン…そうですか、正妃様のご子息でいらっしゃるのですか…この村に来られたということは皇太子となられたのですね。おめでとうございます」
穏やかな笑みを浮かべたまま祝辞を言うが、ゼルファはそれを黙殺した。ヴァンデスキー卿がわずかに顔をしかめたのが、後ろに控えているユアンにも雰囲気で伝わった。
グレイクはわずかに困ったような顔をしてゼルファから後ろに控えているユアンとカナンを見た。
と、その時、グレイクの表情ががらりと変わった。
黒い目を大きく見開き、大きく酸素をとりこむように口を開く。息を呑む音が聞こえた。
まるでそこにいるはずのない者を見つけた――まさにそのような表情をしていた。
そしてその驚愕の色をたたえている黒い目の先にはユアンがいた。
「おい、ユアン。あの人…」
「――クナデ様ッ!!」
隣のカナンがなにか言いかけた時、グレイクが声をあげた。
その声に出迎えに出ていた村人たちがざわめき始め、いっきに視線がユアンに向く。ユアンはその視線の多さに思わずたじろいた。
「クナデ…様?」
誰だそれ、と目でカナンに訊くと、カナンも知らない、というように首を傾げて肩を軽く竦めた。
するとグレイクは夢にうかされたようなおぼつかない足取りでユアンに近付き、下から顔を覗きこむ。
「クナデ様…あぁ、クナデ様だ…帰って…帰ってきてくださったのですね」
ゼルファもヴァンデスキー卿の存在も忘れたかのようにグレイクはユアンをまっすぐ見つめ、すがるように力強くユアンの腕を掴む。
「いや、私はクナデでは…」
「クナデ様、クナデ様…あぁ、相も変わらずお美しい。 あの日からまったくの遜色そんしょくがなく…私は、私は…ッ」
ユアンを見上げて感極まったように目尻に涙を浮かべる。その様子にユアンは困惑の表情を浮かべ、カナンを見やる。
「クナデ様…あれが?」
「クナデ様って確かあれだろ?」
「あぁ!間違いないわ、あの方は確かにクナデ様だわッ」
「私はあの日から一日だって忘れたことがないよッ。あのお美しい方は二人といない。あの方はきっとクナデ様だわッ」
グレイクが今まで胸に溜めていた想いを延々と口にしている間にも村人たちのざわめきが次第に大きなものになり、 それが伝播でんぱしたかのように同僚の騎士たちもひそやかな声で囁きあう。
「クナデ様?誰だそれ」
「なんかあの村長はユアンのことをそう言っているけど?」
「え…?でもユアンはユアン、だよな?クナデっていう名前じゃないし」
「人違いなんじゃないかなぁ」
ざわめきと囁きが重なりあう中、ヴァンデスキー卿は一人顎に手を当てて静かに黙考していた。 ゼルファとカナンは事態に取り残されたように茫然と立っていて、ユアンは困惑の表情を浮かべ途方に暮れていた。
「黙れッ!」
ざわめきの中、突然凛とした張りのある声があがった。その声の主は事態に置いていかれたゼルファだった。その声に村人たちと騎士たちは 息を呑んで口を噤んだ。村に久しぶりの静寂が訪れた。
「おい、グレイクとか言ったな?そのユアンという者がなんだか分からないが、おまえの村は客人をほったらかしにする習慣でもあるのか?」
ユアンとグレイクのほうに身体を向けて厳しい視線を老人に向ける。
「あ…いえ、その…」
我に返ったグレイクはその厳しい視線に耐えられず、申し訳なさそうに目を伏せる。
「――申し訳ございませんでした。大変失礼を…」
「それで、俺たちはこれからどうすればいいんだ?この暑い中、まだ立っていなければいけないのか?」
「あ、いえ。これから神殿に行ってもらいます。”神問いの子”との顔合わせと、アヴトゥルナ神に礼拝を…」
「だったら早く案内しろ。それとも勝手に行っていいのか?」
「いえ、いえッ。では、案内します…」
大きく首を左右に振ってやっとユアンの腕を離す。
「あなたはユアンという名前なのですか?」
もう一度ユアンの顔を見上げて訊く。その目は否定して欲しい色がただよっていた。
「はい。ユアン・マクスヴェルと申します」
しかしユアンは気付かなかったようにはっきりとした声で名乗った。するとグレイクは「そうですか…」と目に見えて肩を落とし、ゼルファのところへと行った。
「グレイク長老」
それまでずっと沈黙を守っていたヴァンデスキー卿がグレイクを呼び止め、わずかに身体を屈めてなにやらグレイクに耳打ちをする。
グレイクは分かった、というように頷いて「ではこちらへ」と、ゼルファたちを神殿へと案内する。
村人たちが道をあけそこを歩く。村人たちの視線はゼルファではなくユアンに注がれている。
(なんか、嫌だな)
身体に突き刺さる視線に居心地の悪さを感じため息をつく。すると腰のあたりを軽く叩かれ、顔をあげるとカナンが声を出さないでなにかを言った。
気にするな、口の動きでそう言ったのだと分かりユアンは身体の力を抜いて笑みを浮かべる。
ありがとう、と言うようにカナンの背中を軽く叩いて前を見る。
(早く帰りたい)
早くこの村から出たい。でないとなにか嫌なことが起きそうだ。何故かユアンはそんな予感を感じていた。