青年は彼女に対して、畏敬と憧れを抱いていた。
それは青年だけではなく、この村に住んでいる者は誰でもそうなのだが、青年はそれと同じようで、少し違う。 彼女は美しい。同じ人間とは思えないくらい、美しい。きっと彼女以上に美しい人はいない。いたとしたら、それは神だ、と思う。
その美しさに異性としての興味をも抱いているが、それは決して卑しいものではない。そう、自分の手の届かない存在だからこそ憧れる。人々が 神に思いを馳せるのと、似ている。
彼女は自分たちにとって神に等しい。実際そうだと言っても過言ではない。
だから畏怖とも、尊敬ともつかぬ感情を抱き、彼女が自分たちの目の前に姿を現す時を楽しみにしていた。

その日、”子”は久しぶりに村人の前に姿を見せた。
ここ最近ずっと体調が優れないなどの理由で神殿に引きこもっていた彼女が、その日久々に村人たちの前に姿を現した。
彼女のことを心配していた村人たちは彼女の姿を見て胸を撫でおろした。彼女の身になにかあったらきっと不吉な災いが起きる、と思っていたからだ。
村人たちは働くその手を休め、その場に座り簡略な礼をした。正式な礼をするのは祭りなど大事な行司の時だけと決まっている。
青年も久々に見た”子”の美しい姿に胸を躍らせながら、その場にひざまずいた。
しかし”子”はそれに目をくれなかった。どこか茫洋ぼうようとした視線をさまよわせていた。
その時になって村人たちは”子”の様子がどこかおかしい、と気付いた。
青年は目だ、と思った。”子”の目は暗い色を宿していて、その瞳にはなにも映していなかった。何故か、それがとても恐ろしかった。
どうしたのだろう?なにかおかしくないか?村人たちは互いに目配せをして”子”の様子について囁き合った。
――と、その時。
”子”の唇がゆっくりとわずかに動き、村人たちには聞こえない声でなにか言葉をつむいだ。
虚ろだった目が、どこかに焦点が定まった。
突然、圧されるような衝撃が身体を打った。
いつの間にか雲が太陽を覆い、細い針のような雨が降り出し、乾いた地面に染みを作った。おかしい、今は雨の時季ではない。
襲いかかってくる強風に耐えきれず村人たちは倒れ、組んでいた手を地面につけ、身体を縮こまらせた。しかしその中でも”子”だけは悠然と立っていた。 まるで自分の周りに壁を作ったかのように強風を感じていなかった。
雨は次第に激しくなり、雷鳴が鼓膜を打つ。閃光が宙を裂き、腹の奥底を打つような轟音ごうおんが響く。
青年は突然の災害に混乱していた。いったいどういうことだ?何故いきなり嵐が起きているのか?暴風雨に耐えながら”子”を見た。
しかし”子”は無表情に地にひれ伏す村人たちを見ていた。美しい容姿なだけにその表情は身が竦むほど恐ろしかった。
なにか、木が燃えたような匂いが鼻をくすぐった。
嫌な予感がして振り向くと、自分たちの家が燃えていた。雷が落ちたからだろうか?風つよくて雨も降っているのに?
――”子”の力だ、と青年はやっと理解した。そうだ、”子”は神と同等の力を持つのだ。自分の意のままに嵐を起こすことぐらいできるだろう。
村人たちもじょじょにそれに気付き始め、ざわめいた。しかしそのざわめきも聞こえないかのように、”子”は静寂を守っていた。
”子”はふと足を踏み出してゆっくりとあるものに向かう。
まだ火が移っていない民家に近付き、身をかがめる。細い手に取った物は自分たちが侵入者から守るために使っている剣だった。
何故剣を?と青年は疑問の目をその手に向けた。そしてその手から、”子”の表情へと。
目に入った映像に、青年は自分の目を疑った。うつむき加減に手にしている剣を見ている”子”の唇は、笑みの形に歪んでいたのだ。
それはいつもの慈愛に満ちた笑みではない。それとは正反対の、冷たく、見るだけで恐怖で身が凍るような、残虐な笑みだった。
全身に戦慄せんりつが走った。”子”がこれからやることを直感的に分かってしまったからだ。
本能が警報を鳴らし、逃げるために立ち上がろうとするが、襲いかかってくる暴風のせいか、それとも恐怖のせいか、身体を動かすこともままならない。
その間にも”子”は優雅な仕草で剣を振りかざした。次にされることを頭では分かっていても身体は動かない。
”子”は躊躇ためらいもなく近くの者を斬りつけた。それはまるで草木を刈るような自然な動きだった。
斬られた者は声にならない短い悲鳴をあげて力なく倒れた。少し遅れて状況を理解した村人たちの悲鳴があがる。
それでも”子”は構うことなく次へ次へと、手当たり次第に村人たちを斬っていく。ついこの前まで自分を敬い、慕ってくれていた者たちを。
村人たちは今目の前にしている殺戮者さつりくしゃに対してどうすればいいのか分からなかった。剣をとって 応戦するべきだろうか?しかし相手は”子”だ。
”子”を傷つけるのか――…?!
それはできない、と村人たちは無謀だと分かっていても剣を持たずに”子”に立ち向かった。とにかく取り押さえなければならない。でも傷つけてはいけない。
早く”子”を止めなければ、”子”はここにいる全員を殺してこの村からいなくなってしまう。
漠然とそんなことが分かった。 早く止めなければ”子”がこの村からいなくなってしまうことを。それは死よりも恐ろしかった。
立ち向かった村人たちは次々と”子”に斬られた。それでも怯むことなく数人がかりで”子”の殺戮を止めた。
”子”は激しく抵抗し、それに呼応こおうするように風や雨、雷が激しくなり、ついには地震まで起きた。
青年はそれに耐えながら茫然と抗う”子”の姿を見ていた。
どうにかしなければいけない。どうにかしないと、この村は滅びてしまう。
そうだ、”子”の力を一時的にでも弱めれば…そうすればきっとこの状況を打破できるだろう。
しかし、どうやって?
青年は逡巡しゅんじゅんした。そしてふと腰に携えてある短剣の存在を思い出した。狩りの時に使う剣だ。
これをやるのか?青年は息を呑んだ。青年は、いや、この村の者なら全員”子”の力を一時的に弱める方法を知っている。
しかしそれは”背徳”にも近い行為だった。だから”子”を押さえつけている村人たちは素手で”子”に立ち向かったのだ。
けれど、これをやらなければならない。そうしないとこの村は遠くないうちに滅ぼされてしまう。
青年は意を決した。暴風に襲われながらも自身を叱咤しったして立ち上がる。
”子”を押さえていた村人たちは短剣を手にしている青年を見て、躊躇いの表情を浮かべた。しかしすぐに村人たちも決心して”子”から剣をとりあげた。
”子”を押さえている村人たちも、それを見守っている村人たちも固唾かたずを呑んで青年に視線を向けた。
決断を称える視線と、批難する視線が全身に突き刺さった。
”子”はこれからされることを悟り、さらに抵抗を激しくした。普段の彼女からは想像がつかないほどの激しい、咆哮ほうこうにも似た 叫び声をあげ、それに共鳴するように地震がさらに強くなり、地割れが起こる。
青年は足に力を入れて、そして心を痛めながら剣を振り下ろした。
”子”の細い腕に赤い線が刻まれる。鮮血が剣を濡らすと、”子”は息を呑んで身体を強張らせた。黒い大きな目を大きく見開き、 自分の血に怯えるかのように小刻みに震えだした。
青年はその姿を見て胸を痛めた。美しい彼女の歪んだ表情を見るのが、辛かった。
糸が切れたように”子”の身体から力が抜けた。とたんにそれまで村人たちを襲っていた強風も、雨も、雷も、地震までもが止んだ。村に久しぶりの静寂が訪れた。
青年は訪れた静寂に安堵し、再び”子”を見た。
未だに押さえられている”子”は力なく項垂うなだれていた。意識がないようにも見える。
ふと視線をおろすと”子”の白くて細い脚が目に入った。なんとなしにその細い脚を見ていたら、突如赤いものが伝った。
それは血だった。手にかけた者たちの返り血ではない。腕から流しているものと同じ、”子”の血だった。
青年はそれが意味することを知っている。知っているから、驚き、そして抗えない運命と掟に顔を歪めた。
ずっと項垂れていた”子”の身体が小刻みに痙攣けいれんした。
幼い少女のように”子”は笑い声をたてた。
美しい形をした唇は狂気の笑みで歪み、哄笑こうしょうをあげる。
村人たちはその姿を茫然と見ていた。
――”子”はついに自身の運命から解き放たれたのだ。

 その後、村人たちは談合を重ね、”子”を神殿に幽閉ゆうへいした。
今回のことは殺された者たちが知らずに罪を犯していて、神の代理人である”子”がそれを裁きに来たのだ、と片付けられた。
しかし村人たちは”子”の存在を恐れた。
故に今後このようなことがまた起きないように、と、言い訳するように、今回のことを闇の底へと葬り、蓋をするかのように次の”子”も その次の”子”も幽閉した。
”子”は年に何度かある祭りの時以外、ずっと神殿の中に閉じ込められた。
それがさらなる歪みを生んだことを、村人たちはずっと長い年月の間、気付かなかった。


⇔⇔BACK⇔⇔   ⇔⇔NEXT⇔⇔